江戸無血開城。 | 幸せは私の中に そしてあなたの中に。

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克服出来ない病は世の中に沢山ある。自分も数々の克服出来ない心の病と身体の病に罹患している。他人の痛み知る努力をし、思い遣りの心で知り応援したい。努力によって人は誰しも大きな失敗でも取り戻せる。努力によって人は誰しも生きる尊厳を取り戻す事ができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読み下さい。

 

 

 

 

MISIA - 逢いたくていま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治元年(1868)、江戸城が旧幕府側から新政府の手に

 

 

接収されたことをいう。

 

 

明治元年正月の鳥羽・伏見の戦の後新政府は徳川慶喜追討の

 

 

軍をおこし、大総督有栖川宮熾仁親王指揮下の東征軍は、東

 

 

海・東山・北陸三道から江戸に迫った。

 

 

3月6日、大総督府は江戸城総攻撃の日を3月15日と決定

 

 

した。

 

 

すでに慶喜は、上野寛永寺大慈院に屏居し、恭順の意を表し

 

 

ていた。

 

 

この時期に、関東地方では上野・武蔵を中心に一揆打ちこわ

 

 

が頻発し、江戸の民心も極度に動揺していた。

 

 

人民のこうした状態は、江戸城攻防戦を前にした新政府・旧

 

 

幕府側双方にとって無視できない要素であった。

 

 

旧幕府陸軍総裁勝海舟は、山岡鉄太郎に託して大総督府参謀

 

 

西郷隆盛に宛てた手紙で、江戸城攻防の戦乱が人民の蜂起を

 

 

まねく危険性を指摘して参謀の善処を要望している。

 

 

これが、江戸無血開城の背景の一つである。

 

 

3月9日駿府で西郷・山岡会談が行われ、慶喜の降伏謝罪の

 

 

条件7ヵ条が山岡に示された。

 

 

それは、慶喜の岡山藩御預、江戸城明渡し、軍艦兵器引渡し

 

 

城内居住旧幕臣の処置などであった。

 

 

これらの条件は、一部をのぞき、旧幕府方首脳部の容認でき

 

 

るものであった。

 

 

3月13日東海道先鋒参謀木梨精一郎は、横浜で英国公使パ

 

 

ークスから江戸が戦乱となることについての強硬な反対意見

 

 

を聞き、西郷に報告している。

 

 

これも、江戸無血開城の背景の一つである。

 

 

おなじ3月13日、西郷は江戸高輪の薩州(鹿児島)藩邸に

 

 

おいて勝海舟と会見し、両者は翌14日田町の薩州邸で再度

 

 

の会談を行なった。

 

 

この際、勝が西郷に提出した嘆願書の内容は、慶喜の水戸謹

 

 

慎以外は西郷・山岡会談の際の条件と大差はなかった。

 

 

西郷は、翌日の江戸城総攻撃の中止を指令し、駿府に帰って

 

 

大総督宮に報告し、さらに上京して慶喜処分案の朝裁を得た。

 

 

こうして、江戸無血開城は実現することになった。

 

 

4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光は勅

 

 

使として江戸城に入り、田安慶頼に朝旨を伝えた。

 

 

江戸開城は4月11日に行われ、同月21日大総督宮は各先

 

 

鋒総督・参謀以下を率いて入城した。

 

 

江戸開城以降、江戸を脱走した旧幕府諸部隊兵士は各地で反

 

 

抗し、一揆・打ちこわしも頻発し、関東地方とその周辺地帯

 

 

は大混乱となった。

 

 

このなかで、混乱の原因は徳川家処分の未決定にあるという

 

 

ことが認識され、徳川家の家督相続と城地禄高の早期決定論

 

 

が、江戸の東京化論とともに大総督府や京都新政府内で真剣

 

 

に審議され、やがて田安亀之助(徳川家達)の家督相続、そ

 

 

の駿府移封と70万石下賜の朝旨が伝達される。

 

 

江戸の東京化も、徳川家達の駿府移住決定後に行われ、7月

 

 

17日江戸は東京と改称された。

 

 

ついで8月4日、東京行幸の布告がだされ10月13日天皇

 

 

の東京着とともに江戸城を皇居とし、東京城と改称した。

 

 

天皇はやがて京都に還幸したが翌2年3月に再び東京に行幸

 

 

し、ここを永住の地としたので、東京は日本の首府となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my family.