嫌な人物 | 夢追い人一里のブログ

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カテゴリ(家庭連合 批判・告発)

 幕末に登場する人間の中で一番嫌な人物は勝海舟だ。理由は、まず江戸城無血開城を自分の手腕のように言いふらしたこと、そして、日本人として咸臨丸で初めてアメリカに渡ったのは自分の手柄の如く吹聴したことなどからだ。

勝海舟自身の手による「氷川清話」(注1) には次のように記述されている。

 

「日本海軍の基礎
また万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないで、亜米利加へ行 つたのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ。」

 

この記述には間違いがある。

まず、外国人の手は少しも借らないで、という行だ。実は勝海舟は咸臨丸の操船には全く寄与していないし、外国人の手を借りなければ、咸臨丸は航海することができなかったというのが真相のようなのだ。

 

また、咸臨丸を語るなら、まずポーハタン号という船の名も語らねばならないないのに、そのことが全く語られていない。

幕府は日米修好通商条約の批准書交換のための使節を米国船ポーハタン号でアメリカに派遣した。その随伴艦として咸臨丸は太平洋を渡った。

咸臨丸単独で海を渡ったのではない。

この史実を『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』 という本から引用してみる。引用箇所は【】でくくる

 

【咸臨丸は何故太平洋を渡ることになったのか。 安政五 (1858)年六月十九日、日米修好通商条約が締結されたが、幕府はこの条約の批准書 交換のために、安政七 (1860)年、遣米使節を派遣した。 正使新見正興、副使村垣範正 目付小栗忠順という三使率いる使節団は、従者や賄い方を含めると七十七名という大所帯となり、 アメリカ軍艦ポーハタン号に乗って渡米した。】

【これまで行ってきた海軍伝習技術を地に生かす計画が立てられ、ポーハタン号の護衛を名目として幕府軍艦を派遣することになった。この軍艦が咸臨丸である。 つまり、咸臨丸は、正規の使節団を乗せたポーハタン号の随伴艦という位置づけであり、幕府が 「いい機会だから」というような心持ちで派遣したものである。】

 

勝は、「おれが咸臨丸に乗って」と言っていて、あたかも咸臨丸による渡米の最高責任者の如き印象を与える表現をしているが、勝は咸臨丸渡米の最高責任者では無い。

『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』には次のように書かれている。

【幕府は咸臨丸を派遣するについて、木村摂津守を責任者と決め、「亜利加国江為御用越候付、 御仰出」との、現代流にいえば「辞令」を交付した。 こういう場合、 誰を使い、 どういうチー ム編成にし、 どういう日程を組むかなど、企画・計画の一切は、アメリカへ行けと命じられた木村 が立案策定することになるのだ。】

 

勝が咸臨丸に乗ることになったのは、アメリカに行きたがっていた勝であることを知っていた木村が乗組員の一員に加えてくれたからである。

『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』にはさらに次のように書かれている。
【明治になって、人に問われた木村は、「勝さんがどうしてもアメリカに行きたいというから、私がそのように取り計らったのに、幕府が勝さんの身分を上げてくれなかったことが始終不平で、大変な癇癪だから、いつも周りの人間に 八つ当たりしていた。始終部屋に引きこもっていたので相談のしようがなく、やむなく私が勝さん の部屋に行って相談をしようとすると、『どうぞご勝手に』とか、『俺は反対だ』としか言わず、ふて腐った態度をとるばかりでホントに困った」という主旨の述懐をしている。常に温厚で、人を中傷することなど全くなかった木村摂津守として は珍しいことであり、よほど困惑したものと察せられる。】

 

勝は、不平だったばかりでなく、船酔いのため出航から米国到着まで始終船中で寝ていた。甲板に現れたのは3度くらいだったよし。それは勝の子孫の話を聞いてなるほどと思った。

その勝海舟の子孫の方の話では勝は船酔い体質で勝自身が「船酔いを克服するのも海軍の勉強の一つ」と言っていたくらいだと話していた。

2020/5/12(火)NHKラジオ深夜便 「明日へのことば」から。

 

さらに、勝自身の言葉からも勝の船中での態度は予測できる。

勝が船中でふてくされていたという事実について、さもありなんと思わせる氷川清話の記述を引用する。くどいようだが氷川清話は勝自身が書いたものだ。

勝は帰国後幕府のある部署に任ぜられた。

 「その頃の蕃書調所といふ役所の副総裁に任ぜられた。当時の同役は古賀精一で、彼の箕作麟祥などは教授の役を勤めて居た。しかし私の器量は蕃書調所などといふ閑散人のやる仕事は一向好まぬところから、いつさいの事務は 古賀一人に任せてしまって、自分は麻かみしも(原文は旧漢字)を着たままで、ゴロゴロと寝ころんでばかり居たのである。」

 勝は気に入らない仕事に対しては、ふて腐れることはばからない人だったようだ。

 

 それから、咸臨丸の操船は、日本人にはほとんどできなくて、難破した捕鯨船の船長で、帰国の為に同船していたアメリカ人ブルック船長以下彼の乗組員達がいなければ船は動かなかったそうである。

日本人で手伝いができたのはわずか2,3人にとどまった。

勝の記述、外国人の手は少しも借らないで、というのは真っ赤な嘘だったのである。

【咸臨丸の航海は、確かに酷いものであった。殆ど毎日荒天で、晴れた日はほんの数日しかなかったようだ。】

【出港の翌日から船は荒波に翻弄され、日本人の殆どがダウンした。最初の十日間が特に酷かった】
【このため咸臨丸の操船は、ブルック大尉以下アメリカ人十一名が行った。木村の従者の証言記録によれば、アメリカ人たちと共に作業をしていたのは、中浜万次郎と小野友五郎、そして、浜口右衛門の三人だけであった。】
 【ブルックも、日本人は帆が上げられない、風をみて舵をとることができない、帆をたたむことができないと嘆いている。そのくせ日本人は、ブルックたちを乗船前から蔑視していたのである。】

  長崎海軍伝習所の出身者らは殆ど役に立たなかった。木村は役に立たないだろうことを予め予想できていたが、咸臨丸派遣の目的から選ばざるを得なかった彼は次の行動に出ている。

【木村は、士官クラスをすべて長崎海軍伝習所出身者から選抜した。木村は、初代の永井尚志の後任として二代目の海軍伝習所頭取を務めている。 伝習生個々の力量は把握していたはずである。ま た、咸臨丸派遣の主目的に照らせば、伝習生から選ぶべきであった。
また、アメリカ公使館と直談判しブルック大尉たちの乗船を実現させたのも木村である。これに は日本人士官以下関係者すべてと言ってもいい周囲から、猛烈な反撥があったが、木村は幕閣を説き伏ふせた。
木村には、分かっていたのである。
海軍伝習所といっても基礎学習と初歩的な実習を修めたに過ぎず、いざ実際の航海となれば役に 立たないであろう】と。

 

偉大なのは木村摂津の守である。外洋を航海するには技術は未熟である伝習生と知りながら、咸臨丸派遣の目的から彼らを用いざるを得なかった。故に、航海に習熟した航海士をどうしても人選しなくては無事に渡米することはできない。それを知っていたから、ブルック大尉たちの乗船を実現したいと主張し、反対する幕閣などを説得した。

 

なお、勝の不満の理由は、木村摂津守らと自分への幕府の処遇に差があったことによる。

 

【このような辞令"を交付する時、幕府はそれなりの処遇を行うのが通例である。即ち、 この時木村は「軍艦奉行並」から「軍艦奉行」に昇進し、「摂津守」という官職名と「従五位下」 という官位を授けられ、禄高は千石から二千石に加増された。】
【木村が、勝の夢を叶えさせてやろうと考え、編制に加えてやったということなのだ。 人一倍自己愛のみが強い勝には、これが分かっていなかったようだ。
勝は、幕府は自分の才能を理解していないと怒り、自分より年下の木村が自分の上に立つことが 不満であったのだ。このことが、咸臨丸航海中の「ふてくされ」、木村への八つ当たりや無礼と なって表われ、日本人士官からも激しい反撥を買い、軽蔑を受ける原因となった。】


本日ここまで


注1 「氷川清話」

 勝海舟/江藤淳・松浦 玲 編
2000年12月10日 第1刷発行
2010年4月20日 第29刷発行
発行者 鈴木哲
発行所 株式会社講談社