読者は、この表題に対してまず予想して読み始めると思う。おそらく多くの関わりある人は、この記事と同じ見解を示していると思う。特に経験者は人生最大の間違いだったとおもっているだろう。
それは祝福だ。この世的にいえば、指名結婚のことだ。日本国憲法にてらしてもそれは間違いである事がハッキリしている。
「第二四条【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】
- 1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
- 2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」
統一教会信者における、人生最大の行事が祝福という名の指名結婚を受けることだ。かつてはメシア自身が信者の配偶者を決めていた。メシア亡き後は、次第に信者の親がその役を担っていくようになり、その内、それはなし崩し的に自由に恋愛ができるようになるだろう。えっ、それなら最大の悪がなくなってよくなるの、と思ってはならない。何故ならメシアの指名結婚を受け入れることは、堕落人間が救いを受ける為に必要欠くべからざる重要なことだったからだ。自由恋愛を認める事は、人間の堕落からの救いという道を自ら否定することを意味する。教会存立の意義を失うということになるからだ。しかし、おそらく今の信者達は、自由恋愛が教義の否定になるなどと考える者は、ほとんどいないだろう。信者には教義から教会の方針や指示事項を吟味するという姿勢は持ち合わせていない者が多い。そもそも、メシアの妻が、独生女を主張して、それを無批判に受け入れる教会本部と信者であることから、それは解る。独生女が教義の否定であることは説明するまでもない。説明がなければ、解らないという人は、教義を全く理解していないという証明だ。統一教会とは教義はどうでもいい所なのだ。言い換えると統一教会の教義はただ一つ、上の言うことには素直に従え、この一つだけなのである。だから祝福受けても人間は堕落人間だとかの主張が平気でできる。原理講論に書かれた教義は便宜上の教義なのだ。
さて本題にもどろう。
祝福という指名結婚は、人間の自由な意思を否定して成り立つ。結婚後の人生設計をそれまで生きてきて描いていたものを一旦白紙に戻して設計し直す必要にかられるわけで、しかも相手が受け入れがたい存在だった場合は、その祝福を受け入れた瞬間人生の破綻を意味する。破綻を免れる為には祝福から逃れるしかない。これが祝福家庭の壊れるゆえんだ。
あのブラックふんじんにむによる儀式で見た不倫の罪を犯した人が如何に多かったかという事実もそれを如実に物語っている。
離婚というのは外的に婚姻の破綻を意味しているが、不倫もまた破綻を意味している。さらに不倫しないまでも相手に不満を持ち続けていれば、それは内的な破綻だ。そういう家庭人から、発展的な幸福な人生が築けるはずはなかろう。
原理講論冒頭における、人間は幸福を求めている。それは欲望の充足によって実現するという迷言の意味するところは、正確に解釈すると、メシアとその取り巻きの幸福は、信者が及び人類がメシアおよび取り巻きの言いなりになることによって実現するという意味であることをしっかり認識しておく必要がある。