「 日本文化と個人主義 」
山崎正和 (やまざき まさかず 1934~)
中央公論社 1990年9月発行・より
鎌倉時代になると、武士が台頭し、その後の政治や法制度の原型ができたものの、この時代にはまだ、商人も手工業者も大きな勢力をかたちづくってはいない。
公家、武士、農民、商人、そして職人といった日本社会の各階層が出そろい、しかもそれぞれがみずからの文化的な主張を持ち、生活の独自のスタイルを形成していったのは、室町以後のことだといえる。
じっさい、現代人が日本文化というときに即座に思い浮かべる活動や文物は、ほとんどが室町以後の創意と発明にかかる産物である。
たとえば、和室といえば畳敷きの座敷を思い浮かべ、そこに床の間があり、山水の掛け軸などが懸かっているさまを考えるが、これはいずれも室町時代に生み出されたものであった。
それ以前の日本の住宅は、板の間に藁で作った敷物を敷いて、座ぶとんを使うようにそれに人びとが坐っていただけであった。
また、和食の食卓には欠かせない多様な食品、納豆から饅頭にいたる味覚が出そろうとともに、四条流包丁道などといって、日本料理の技法が体系化されたのもこの時代であった。
『小笠原流』 といえば、日本人の行儀作法の代名詞になっているが、これを定めたのも足利義満の家臣、小笠原長秀であったという。
さらに、生け花、茶の湯、能、狂言といえば、いまも日本が国際交流の場で伝統芸能の精華としているものであるが、これらがことごとく室町時代の産物であることはいうまでもない。
そのうえ、あの 『源氏物語』 を代表とする王朝文化にしても、それが輝かしい黄金時代として日本人の意識に定着し、憧れの対象となったのは、じつは東山時代のことであった。
足利義政が京都に銀閣寺を造営していたころ、時の関白、一条兼良は公家であると同時に優れた学者であったが、彼の大きな功績は 『源氏物語』 の注釈を行い、この古い物語をあらためて古典として確立したことであった。
ある意味でいえば、われわれが知っている王朝の文化、平安貴族文化そのものが、半ば近く、室町時代の再発見の産物だったといっても、過言ではない。
2018年10月30日に 「室町時代の宗教」 と題して山崎正和の発言を紹介しました。 コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12380733784.html
2019年2月7日に 「室町時代の文化的統治能力」 と題して山本七平と山崎正和の対談を紹介しました。 コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12380657665.html?frm=theme
5月13日の奈良・興福寺