加賀前田家のウソと東大  | 人差し指のブログ

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賎ヶ岳の戦い ~ Wikipedia

ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田勝家側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される

 

 

 

 

「 英傑の日本史 信長・秀吉・家康 編 」

井沢元彦 (いざわ もとひこ 1954~)

株式会社 角川学芸出版 平成18年8月発行・より

 

 

 

これが、いわゆる賎ヶ岳の戦いである。

 

 

 勝家軍の敗因は、血気にはやる佐久間盛政が総司令官の勝家の命令をきかずに突出し、中川清秀は討ったものの全軍の陣形を崩したため、

そこを秀吉につけ込まれた、ということになっている。

 

 

 大河ドラマでも、プロの歴史学者が書いた 「日本の歴史」 というような本でも、ほとんどすべてが そのように書いている。

 

 

つまり柴田勝家の敗因は 「佐久間盛政の暴走」 ということだ。

 

 

 だが、これは実は大ウソなのである。  これは本当の話だ。

 

 

 まず、最初に 「盛政暴走説」 を書いたのは誰かといえば、小瀬甫庵(おぜほあん)という人である。

 

 

これはあの有名な 『太閤記』 という 「秀吉出世物語」 は後世にいくつも書かれたが、この 『甫庵版太閤記』 はその最初のものだ。

 

 

その 『太閤記』 に初めてこの説が書かれ、それを皆が正しいと思っているわけなのである。

 

 

 しかし、プロの歴史学者でも、だまされない人もいる。

 

 

たとえば日本歴史学会の会長もつとめた元國學院大学教授の高柳光寿(みつとし)氏(故人)は 『賎ヶ岳の戦い』(春秋社) で次のように述べている。

 

「 『一柳家記』 という本の賎ヶ岳の戦に関する記事は他の諸本に比して正確であるが、盛政の敗戦を故あって敗軍したと書いている。

なかなか含蓄のある書き方である。

大名仲間では、前田利家が裏切ったとは書くことができなかったからであろう 」

 

 

 つまり、この時、勝家側の有力武将として陣を守っていた”前田利家が裏切った”ことが、勝家の真の敗因だというのだ。

 

 

 高柳氏は史料を綿密に分析し、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の裏切りよりも、この裏切りのほうが 「大きい」 すなわち 「一戦を決定づけた」 とまで言っている。

それが事実なのだ。

 

 

 では、なぜ、われわれは今もダマされているのか。

そうそう、一つ重要なことをお教えしよう。

 

 

 そもそもこの 「インチキ説」 の言いだしっぺ小瀬甫庵は加賀百万石、

すなわち前田家の家臣なのである。

 

 

 さて、読者の皆様方には、息子(あるいは娘)の就職口がいまだに決まらなくて悩んでいる方はいないだろうか。

 

 

 なぜそんなことを話題にするかといえば、元祖 『太閤記』 の作者小瀬甫庵もそれで悩んだ一人だったからだ。

 

 

 甫庵は尾張の人であった。

信長、秀吉と同郷で、秀吉よりも二十八歳年下である。

 

 

書くことが大好きで、職業は現代なら 「作家」 と言われるだろうが、実は医者が本業であった。

 

 

 この時代はまだ出版業がない。

いくら優れた著作を書いても原稿料も印税(著作権料)ももらえない。

 

 

作家専業は有り得ないのだ。だから甫庵も息子を医者にした。

 

 

甫庵自身はまず豊臣秀次(秀吉の養子)に仕え、秀次が処刑された後は、出雲国(島根県)を領国としていた堀尾吉晴に仕えたが、吉晴も病死した後は牢人となった。

 

 

自分も牢人なのに息子の就職口を探すのは難しい。

 

 

ところが、なんともありがたいことに、加賀百万石の前田家が息子を藩医にしてくれた。

 

 

それだけでも嬉しいのに、なんと前田家では 「あなたもどうぞ」 と、甫庵自身を招いてくれたのである。

 

 

『太閤記』 は実は前田家内で完成された。

出版では生活できないのだから、著作を完成させるためにはパトロンの援助が不可欠だ。

前田家はそのパトロンになってくれたのである。

 

(略)

 

『甫庵版太閤記』 もその一つだが、あらためて読んでみると、どう見てもおかしいのが第四巻だ。

 

 

第三巻の終りは天正10年つまり本能寺の変の年なのだが、第四巻に入ると突然天正12年の、しかも前田利家と佐々(さっさ)の 「末森城の合戦」 の話になる。

 

 

 この戦いは前田利家の名戦術で前田方が勝ったのだが、戦としては

局地戦で重要な戦いではない。

 

 

それなのに、なぜ詳しく書いてあるかといえば、それは前田家へのサービスであろう。

 

「お歳暮」 と言ってもいいかもしれない。

 

 

ちなみにこの時の前田家の当主は三代の利常(としつね)、利常は利家の孫ではなく子(四男)である。

 

 

『甫庵太閤記』 は第五巻からは通常の流れに戻るのだが、そこで出て来るのが 「賎ヶ岳の合戦」 の話なのである。

 

 

 これじゃあ 「敗因は前田利家の裏切り」 とか書けないでしょう。

 

(略)

 

 しかし、いくら 『太閤記』 から 「前田利家の裏切り」 に事実が抹殺されていたとしても、明治になってからは研究が自由になったから、ウソはバレたのではないか、と考える人もいるだろう。

 

 だがバレない。

その理由は、日本の歴史学の基礎を作ったのは東京帝国大学だからだ。

 

 

「東大」 だからダメなのである。

 

「東大」 なら何でも一番だと思っている人々はまだ絶滅はしていない。

 

 

霞が関のあたりにはまだ棲息(せいそく)しているようだが、実は東大だから余計にダメだということも世の中にはあるのだ。

 

 

前田家は江戸時代ずっと生き残り、明治になってからは華族(貴族)になった。

前田侯爵様である。

 

 

もちろん、その上には天皇家が君臨する。そんな名家の始祖の批判はできない。

 

 

それに日本史の研究者として世に立つつもりなら、旧大名家の所有する史料は絶対に必要だ。

 

 

「あの人には史料は貸せない」 などということになったら研究者としての未来が閉ざされてしまう。

 

 

念のために言うが、前田家が圧力をかけたと言っているのではない。

そんなことをしなくても、研究者、特に官学系の研究者は萎縮(いしゅく)してしまうということだ。

 

 

特に東大がダメなのは、東大(本部)がどこに建てられたか調べてみればわかる。

本郷にある赤門とは、もと前田家の門なのだ。

 

 

「用地払い下げ問題」 で 「真実のペンがにぶる」 というのは、昔からある話なのである。

 

 

 

 

 

9月3日の奈良の鹿                東大寺ミュージアム    

 

 

                                 奈良博物館

 

                                    奈良公園

 

 

 

9月5日の奈良の鹿                   猿沢池付近    

 

 

母鹿のほうへ走っていきました           東大寺南大門

 

 

母鹿がいないので、この子鹿はしきりに鳴いていました。  東大寺参道