千利休の死・井沢元彦説  | 人差し指のブログ

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「 英傑の日本史 信長・秀吉・家康 編 」

井沢元彦 (いざわ もとひこ 1954~)

株式会社 角川学芸出版 平成18年8月発行・より

 

 

 

 

 

 秀吉は関白となって天皇以外には頭を下げる必要がなくなった。

皇太子ですら関白には会釈しなければならない。

 

 

だが、逆に言えば 「天皇」 の 「臣下」 として確実に位置付けられてしまったわけで、秀吉はこれで天皇家には逆らうことはできなくなった。

 

(略)

 

 秀吉が千利休を切腹させた原因については、古来いろいろと言われているが定説はない。

 

(略)

 

 直接のきっかけは、大徳寺の山門の上に利休が自分の木像を置いたことにあるという。

 

 

山門をくぐるというのは、利休の像の足の下を通るわけだから、貴人に対する不敬行為だというのである。

 

 

確かに秀吉はこの木像をわざわざハリツケにかけて、それから本人に切腹を命じたことは確かだから、これがきっかけであったことは間違いない。

 

 

 

 ここで、後世の史家が千利休に 「遠慮」 して あまり言わないことを指摘したい。

 

 

それは利休が庭を作るにあたって、天皇陵の墓石を持ってきた、灯籠(とうろう)の材料にしていたことだ。

 

 

これは当時の史料(『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』等)にある

まったくの事実である。

 

 

 

利休の一番弟子にあたる山上(やまのうえ)宗二が天皇陵の上に家を建てて住んでいた (だから 「ヤマノウエ」 と名乗った) ことも、この時代の専門家

村井康彦氏も認める事実なのである。

 

 

 この山上宗二がまず殺された。

 

 

表向きは秀吉の敵である小田原の北条家にいたから、というのだが、秀吉に対して 「何か言った」 らしい。

 

 

そこで師の利休の助命嘆願も空しく、鼻ソギの刑を受けた上に首をはねられた。

 

 

 なぜ、利休や宗二はそんな 「不敬行為」 をしたのだろうか?

 

 

それは時代の気分がそういうものだったから、いや利休はもともと信長に仕えていたからだろう。

 

 

信長は明らかに天皇を超えようとしていた。

 

 

最近発掘された安土城の御殿も、天皇を招く客殿(きゃくでん)であるのは

いいが、それを天守閣から見下ろせる構造になっている。

 

 

その信長の、利休は茶頭だった。

 

 

そして、今でこそ 「伝統芸術」 の茶道も当時は完全な前衛で、最も革新的なものだった。

 

 

だからこそ信長は利休を重用したし、利休も信長の好みに影響を受けるようになった。

 

 

信長は安土城を作るとき、石仏や墓碑を石垣や石段に使ったことがある。

 

 

おわかりだろう。 利休も同じことをやったのだ。

 

 

しかし、その信長の 「後継者」 であるはずの秀吉は、関白になることによって 「天皇制」 に取り込まれる形となった。

 

 

これは利休や宗二にとっては 「裏切り行為」 だったろう。

 

 

おそらく宗二はそのことを痛烈に批判したに違いない。

 

 

そして、秀吉の 「身分制」 に従わない態度を見せた利休も、秀吉にとってはその体制をおびやかす脅威だったのである。

 

 

 いま、利休は京都大徳寺の聚光院(じゅこういん)という塔頭(たっちゅう)に眠っている。

 

 

隣は総見院(そうけんいん)すなわち信長の墓所である。

 

 

 

 

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