残忍な土方歳三  | 人差し指のブログ

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「 文藝春秋にみる坂本龍馬と幕末維新 」

編者・文藝春秋

株式会社文藝春秋 2010年2月発行・より

 

 

 

~維新人物豆評伝 稲垣史生(しせい) (時代考証家 1912~1996)

 

 

 

 

 土方歳三は武蔵国多摩郡石田村の出身で、早く父母を失ったため

二十歳で商家へ奉公に出た。

 

 

色の白い優男なので、すぐ同家の下女に惚れられてひと騒ぎを起こした。

 

 

後々も役者のようにいい男といわれ、どうしてあの男に人が斬れたかと

不思議がられた。

 

 

 

 そのうえ歳三は大変なスタイリストであった。

 

 

近藤勇について天然理心流を学んだが、道場では赤い面紐し朱塗りの胴をつけて人目を引いた。

 

 

近藤勇が やぼったく、下駄みたいな武骨顔なのと よい対照であった。

 

 

 

 

 ところで幕府の浪士募集に応じ、近藤とともに上洛して以後、三百人の新選組に育てるのに意外な凄腕を発揮した。

 

 

池田屋事件をはじめ敵に対して惨烈をきわめたばかりでなく、味方の不平分子も容赦なく斬った。

 

 

残虐な誅殺はすべて歳三のさしがねで、単純・粗暴な近藤が手を下したものである。

 

 

おしゃれで優男の外貌とはまるで違う、無類の残忍性を秘めていた。

 

 

 

 その役割ゆえに時勢が逆転、薩摩の世になると志士斬殺の憎しみを

一身に集めた。

彼と近藤だけは許されることがない。

 

 

 

 残兵をかき集めて甲州で戦い、下総流山で戦ったのは最後のあがきにすぎない。

 

 

近藤はあっさり諦めて、流山で捕らえられ、斬られた。

 

 

歳三のおのれの運命を知りながら、榎本軍に投じて五稜郭に立て籠もったのは、近藤とは対照的な執念深さからである。

 

 

それに今ひとつ、最後を飾ろうというスタイリストとしての念願があった。

 

 

 明治二年五月十一日、歳三は箱館山奪回のため出陣した。

 

 

榎本軍のフロックに朱塗りの太刀を背負い、鉄扇をあげて馬上から指揮していた。

まさにスタイリストの晴れ姿である。

 

 

時に一弾が飛来して左腹部をつらぬき、どっと落馬して息絶えた。

二十五歳。

 

 

今も残る箱館当時の写真に、スタイリストの二枚目ぶりがよく出ている。

 

              ( 「文藝春秋臨時増刊」 昭和四十八年一月号 )

 

 

                                       

 

 

 

2019年10月1日に 「大名になる気だった新選組」 と題して会田雄次の文章を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12505824654.html

 

 

 

 

 

                12月23日 奈良・東大寺二月堂付近にて撮影