日本と中国「食と色恋」の違い  | 人差し指のブログ

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「 久保田淳座談集 心あひの風 いま、古典を読む 」

久保田淳 他

有限会社 笠間書院 2004年2月発行・より

 

~  日本文化と古典文学  ドナルド・キーン  ~

 

 

 

 

久保田 平安時代というのが どこまで今で言う日本的なものと近いか

     遠いかということは、改めて考えないと いけないんじゃないかな 

     という気もするんですよね。

 

 

     この間、冷泉家の秘宝展というのが ございましたね。

 

 

     そこで貴族が正式な儀式のときに被る天冠が出ていました。

 

 

     その天冠は ほとんど中国の様式ですね。

     物としては江戸時代の物だと思います。

 

 

     江戸時代の冷泉家の当主が実際に大礼のときに被ったんだろうと

     思うんですけど、そういうものが貴族社会にはずっと続いていた

     わけですね、明治以前は。

 

 

     ということは宮廷社会には、それこそ中国から輸入した中国の

     文物、風俗が、一部ではあるけれども、ずっと温存されてきて 

     いたんじゃないか。

 

 

     そうすると、本当に日本的というのは何だろうという気もするんで

     すね。

 

 

キーン 今のお話は大変正しいと思います。

 

 

     ところが私は何が中国に似てなかったかということを考えますと、

     それもおもしろいと思います。

 

 

     まず食べ物に対する無関心。

     日本人は、『源氏物語』 のかなり長い物語の中、何も食べないん

     です(笑)。

 

 

     食べる場面が一つもないんです。

 

 

     『紅楼夢』 は中国の一番いい小説となっていますけれども、

     食べることばっかりです。

 

 

     そういう場面が実に多いのですが、『源氏物語』 は何も食べ物に

     触れないんです。

 

 

     もちろん食べていたはずですが。

 

 

      いつか福井県の武生というところに紫式部アカデミーができまし

      て、そこで平安朝の食事を御馳走になりましたが、実にまずいも

      のでした(笑)。

 

 

     しかし日本人はどうして食べ物に興味がなかったか。

     今の日本人は大変食べ物に関心を持つようになりました。

 

 

     しかし今でも日本人は、食べ物の温度に興味がないんです。

 

 

     冷めた食べ物がよく出ます。それは中国と全然伝統が違います。

 

 

     もう一つ全然違うのは、歌の中で中国人は、まず恋のことを書か

     なかった。

 

 

     杜甫とか李白とか白楽天の恋の歌は、まずない。

     しかし日本の場合は、大変発達した。

 

 

     歌だけじゃないんですが、その点でむしろ日本文学は西洋文学に

     近いと思われます。

 

 

     ただ、中国人は何かの理由で、そういう人間の一面をあまり書か

     なかった。

 

 

     詩人にとっては禁じられているような題だったのでしょうね。

 

 

      そういう意味で言いますと、食べ物の場合でも、お茶とか豆腐と

     か醤油とか、中国から借りたけれども、基本的に日本料理は変ら

     なかったと思います。

 

 

     何か過去からあった日本の文化があって、幾ら影響を受けても

     変らないものがあったんだと思います。

 

 

     それは何かというと、大ざっぱに申しますと日本人の美意識です。

 

 

     それは過去から現在まで続いてきたと私は思います。

 

 

久保田 岩波書店の 「文学」 という雑誌の別冊で 「酒と日本文化」 と

     いう特集があり、いろんな角度からの日本文化と酒の関わりを

     論じています。

 

 

     私の場合は古典和歌と酒の関係を書くように言われたんですが、

     これは書く前から答えはわかっているんです。

 

 

     古典和歌、特に 『万葉集』 から中世、室町ぐらいまでの歌では 

     『万葉集』 の有名な大伴旅人の讃酒歌以外には、酒の歌は

     ほとんど ないんですね。

 

 

     それはもう意識的に歌わない。

     酒に限らず食べ物、飲み物にはなるべく触れない。

 

 

     そういうものを歌うのは卑しいからだというような、やっぱり貴族的

     な美意識が強く働いて、自己規制もしたんだろうと思います。

 

 

     それで、時代が下がって俳諧になると、非常に自由になりますね。

 

 

     芭蕉でも蕪村でも、おおらかに食べ物を句に詠むようになって、

     なんかそこでホッとするんですね(笑)。

 

 

編集部 日本文学の中の、例えば、「雅び」 と 「鄙び」、近世でも堂上

        (どうじょう)歌人とか地下(じげ)歌人などありますね。

 

 

     それで庶民文化と貴族文化という図式というのは、外国の文化で

     もあったんでしょうか。

 

 

キーン ありますけれども、しかし外国の文学に貴族が書いたものは 

     ほとんどないんです。

 

 

     イギリスの詩人で貴族だった人は、せいぜいバイロンだけだったで

     しょう。

 

 

     ほかはみんな庶民だったんです。

     シェイクスピアも庶民だった。

 

 

     ですから日本の文学にあるような貴族文学と庶民文学の対照が

     ほとんどないんです。

 

 

     日本文学の場合は、それもまた日本文学の特徴の一つですが、

     貴族がよく書いていました。

 

 

     ヨーロッパの貴族は、まず物を書かなかったんです。

 

 

     貴族は何をしているかというと、戦争をしていました(笑)。

 

 

     それが一番の仕事だったんです。

 

                                   

 

 

2018年6月1日に 「文学に恋愛がある日本・無い中国 その1」 と題して丸谷才一と山崎正和の対談を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12363550608.html

 

 

 

2018年6月2日に 「文学に恋愛がある日本・無い中国 その2」 と題して丸谷才一の文章を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12377821421.html

 

 

 

                     奈良・東大寺参道にて10月9日撮影