三島由紀夫の寿司の食べ方 | 人差し指のブログ

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「 追悼  上 」

著者・山口瞳 (やまぐち ひとみ 1926~1995)

編者・中野朗 (なかの あきら 1951~)

論創社 2010年 11月発行・より

 

 

 

 

 3年ほど前、六本木の寿司屋で、三島(由紀夫)さんと会った。

 

 

深夜にちかい時刻で、三島さんも一人、私も一人だった。

 

 

私はひどく酔っていた。 三島さんも珍しく酒を飲んでいた。

といっても、ただお銚子が一本置いてある という感じだった。

 

 

 私は少し はなれたところから三島さんと話をしていた。

私は三島さんと親しくもなければ、好きな人でもなかった。

 

 

 三島さんは、トロを注文した。

トロ以外を食べないのである。 その感じは、どうにも異常だった。

 

 

                              

 

 

 寿司屋で三島さんに会ったところまで書いた。

三島さんはトロばかり食べる。 その他のものを食べない。

 

 

これは、あるいはマグロの思い違いかもしれない。 中トロかもしれない。 そのへんはどうでもいい。

 

  職人が、「何か?」 と訊く。

  三島さんが、「マグロ」 と答える。

  それが十回ぐらい続いた。

 

 

  いかにも三島さんらしいと思う人がいると思う。

  私も、いかにも三島さんらしいと思う。

 

 

 いかにも三島さんらしくて、さっぱりしていて、自分の好みがはっきりしていて イイナ と思う人がいるかもしれない。

 

 

しかし、私においては、そうではない。イイナと思うのが半分、イヤダナと

思うのが半分という兼ねあいになるだろうか。

 

 

 

 寿司屋では、車エビなどの高価なものは別として、値段は同じなのである。

時の相場というものがあるから、いちがいに そうとは言いきれないが、

値段は同じだと思って、ほぼ間違いはない。

 

 

 つまり、仕入れの高いものばかりを食べられると、寿司屋は儲からないのである。

 

 

ひところ、マグロは寿司屋にとって赤字になるといわれた時期があった。

 

 

そうでなくとも、マグロは、寿司屋にとって目玉商品である。

マグロが品切れになると店じまいしなくては ならぬことがある。

 

 

私もマグロが好きだけれども、マグロを注文するときは、遠慮しいしい と

いう具合になってしまう。

 

 

それから私はマグロ以外のものも好きだ。 コハダなんかが好きだ。

 

 

 おそらく、これが三島さんでなかったら、職人に厭味(いやみ)のひとつも

言われるという場面であったろう。

 

 

そうでなくても、寿司屋の職人は減らず口をききたがる人間が多い。

 

 

しかし、職人は、だまっていて、いくらか珍奇なるものを見るという顔付きで、マグロばかりを握っていた。

 

 

ここで非常にはっきりしていることは、三島さんが寿司屋を儲けさせまいとしているのでもなく、イヤガラセをしているのでもない ということである。

 

 

 三島さんは 「知らない」 のである。

「 知らない」 ということに、いくらか子供ぽっさが混じっている。

 

 

日本にしかない寿司屋における初歩的なマナーを三島さんは知らないのである。

 

 

おそらく、三島さんの生涯において、一人で寿司屋に入るなんて機会は、ほんの数えるほどしか なかったのではないかと思う。

 

 

 

                                                     

 

 

 

   「 〆切り本 」

編者 左右社編集部

株式会社 左右社 2016年10月発行・より

 

 

 ~ なぜ? 山口瞳  ~

 

 

 

 三島さんが寿司屋で トロ ばかりしか注文しなかったというのは、

名家のお坊ちゃんにありがちな偏食であったかもしれないし、

また私に対する一種の スタンド・プレイ であったかもしれない。

 

 

 三島さんの好物は ビーフ・ステーキ であったという。

 

 

おそらく、会食などで フル・コース の料理を食べるとき以外は、洋食屋では ビーフ・ステーキ ばかりを オーダー されたのだと思う。

 

 

このほうは、例の ボディビル に関係があってのこと かもしれない。

 

 

三島は、(三十歳の頃) 週刊読売グラビアで取り上げられていた玉利齊早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた       ~wikipedia

 

 

 寿司や刺身なら マグロ、肉なら ビーフ・ステーキ ときめてしまっているのも、いかにも三島さんらしいと言えば言えないこともない。

 

 

単純にして明快であり、さばさばしていて屈託するところがない。

 

 

 そうではあるのだけれど、私が寿司屋で会ったとき、寿司屋の職人の、

ちょっと困ったような表情も忘れることが出来ない。

 

 

もう一度くりかえすが、寿司屋というものは、マグロが売りきれてしまえば店仕舞いをしなければならず、マグロばかりだからといって、高い勘定を取るわけにもいかない。

 

 

マグロのない寿司の桶(おけ)なんてものは、どうにも恰好がつかない。

 

 

「有名な人だし、お坊ちゃん育ちするから仕方ねぇや。しかし、変った人だなあ」

 

 職人の表情は、そういったようなものだった。

彼は、そういう顔付きで、私のほうを、ちらっちらっと見ていた。

 

 

 

 こんなことは、まあ、どうでもいいような事柄であると思われるかもしれない。

 

 

こんなことを書いたって、三島ファンにも三島嫌いにも何の影響もない。

 

 

しかし、私は、ここで、三島さんが世事に疎(うと)い人であったということと、世間に気兼ねしない人であったことを、はっきりと させておきたい。

 

 

同時に、私は、自分の立場をも ハッキリ と させておきたいと思う。

 

 

 私は三島さんを咎(とが)めようとは思わない。

 

 

極端な話だけれど、皇太子が世事に疎いからといって、これを咎めようとする人は誰もいないだろう。

 

立場と環境の相違である。

 

 

 三島さんは優しい人だった。 よく気のつく人だった。

 

 

高笑いをする人だった。 

この高笑いは、彼の素性のよさと、汚れのない人柄を示していた。

 

 

 

                                    

 

 

 

「 ダメの人 」

山本夏彦 (やまもと なつひこ 1915~2002)

中央公論社 1994年2月発行・より

 

 

 

 三年ほど前、六本木の寿司屋で、三島さんと会った。

 

深夜に近い時刻で、三島さんも一人、私も一人だった。

 

私はひどく酔っていた       と山口瞳さんは書いていた。

 

 

三島さんというのは、死んだ三島由紀夫さんのことである。

 

 

 山口さんは三島さんと同時代人である。

ただし、親しい仲ではないという。

 

 

その山口さんが見ると、三島さんは まぐろばかり食べている。

 

 

職人がこんどは何を召上がりますと問うとトロと答える。

 

ふたたび問うと、トロと答える。 三たび問うと、トロと答える。

いつまでたっても ほかのものを食べない。

 

 

 寿司屋では、車えびのような特に高いものはべつとして、あとはみな

値段は同じである。

 

 

したがって、仕入れの高いものばかり食べられると、寿司屋は損する。

まぐろは仕入れの高い目玉商品である

 

 

そしてまぐろが品切れになると、その日は店をしまわなければ ならない。

まぐろのない桶(おけ)なんて鮨ではない。

 

 

 だから職人は、わずかに困ったような表情をした。

まぐろ ばかり だといって、高くとるわけには いかない。

 

 

それを三島さんは知らない。 

この人は寿司を食べる初歩的な マナー を知らない。

 

 

 私(山口さん)なら寿司屋の立場を考えて、気がねして まぐろばかりは食べない。

 

 

ほかのものを つまんで、まぐろに返って、またほかのもの をつまむ。

 

 

 これは寿司屋にかぎらない。

 

 

宿屋に とまれば、番頭や女中の立場を考えて、気がねしないわけにはいかない。

タクシー に乗れば運転手に気がねしないわけにはいかない。

 

 

 

私の女房はこの気がねが大きらいで、一緒に行ってもちっとも楽しくないという。

 

 

それにも一理あるとは思うけれど、世間の人は世の中に気がねしながら生きている             

 

 

 

 

 

 右は三島さんの死の直後に書かれた文章である。

 

 

三島さんは昭和四十五年に死んだから、ずいぶん前に書かれた文章である。

 

 

私は山口さんの愛読者で、不思議な魅力のある文章を書く人だとかねがね敬服している。

 

 

どこがいいのだと問われても返事ができない。

あんな文を書く人は、あとにもさきにも ないだろうと思っている。

 

文字通り ユニック である。

 

 

この三島さんの追悼文にも、いかにも三島さんらしい人が出て来て、さも

ありそうである。

 

 

再び三たび トロ と答えるくだりでは、私は山口さんと共にあっけにとられた。

 

 

 それはさておきこの小文には、私の知らないことがたくさん書いてある。

 

 

車えびのたぐいは別として、寿司はたいてい同じ値段だとは知らなかった。

 

 

赤貝と こはだ、穴子と しゃこ は 一々値段が違うものだと、なが年私は思っていた。

 

 

したがって、まぐろばかり食べられると寿司屋は損するというのも初耳だった。

 

それを知らないのは おかしいとあったので、実は私も知らなかったから

大げさにいうと まあ愕然(がくぜん)とした。

 

 

 山口さん書くものは いつも たいてい府(ふ)におちるが、これは府におちない。

 

 

寿司を食べるにも マナー があるという。 そりゃあるだろう。

 

 

けれどもこれが マナー だとは、私ばかりでなく世間の人は思わないの

ではあるまいか。

 

 

                                   

 

 

 

   「 東京美術骨董繁盛記 」

奥本大三郎 (おくもと だいさぶろう 1944~)

中央公論新社 2005年4月発行・より

 

 

 

(東京神田)神保町のまん中、古書店のまさに一等地に 「小宮山(こみやま)書店」 はある。

 

(略)

 

 この店には特に三島由紀夫の初版本や書を多く集めてあると言ったが、中に 「至誠」 と大書したのがあった。

 

 

はっきりいってしまえば、決して上手い字ではない。

それに 「至誠」 とは、何を言いたかったのであろう。

 

 

あれだけ物を考えぬき、鋭い洞察力と知性、教養を具えた人が、と いぶかしく思ってしまう。

 

 

しかも 力(りき)んで バランス のとれないこの字は何なのだろう。

 

 

気迫のようなものは あるといえばある。

しかし いかにも まずい字なのである。

 

 

 そういえば スポーツ刈りのあの風貌も、知的という印象ではなかったように思う。

 

 

どちらかと言えば街のアンチャンのような顔で、ジャンパーを羽織ると、

それこそ 「からっ風野郎」 なのであった。

( 「からっ風野郎」 ~ 三島が主演した映画 )

 

 

 

 といっても実物は一度、遠くから見かけただけである。

 

 

(三島の戯曲の)『サド侯爵夫人』 の初演の日で、紀伊國屋ホールの

喫茶店に三島由紀夫と川端康成が坐って談笑していた。

 

 

『サド侯爵夫人』 1965年(昭和40年)。初演は紀伊國屋ホールで上演され、昭和40年芸術祭賞演劇部門賞を受賞した  ~ Wikipedia より

 

 

 

店の中の客は皆、一応知らんふりをしているのだけれど、全員の神経が

その二人の方に集中しているのは その場の空気で判った。

 

 

三島が例のガラガラ声で、

「褒めるところがないもんだから、あんなこと言って・・・・」

と大声で笑った。

 

 

 ついそっちのほうを見ると三島と一瞬 目があった。

その目に常人にはない光があったのである。

 

 

それはまさに月光を浴びた日本刀のような、一種凄みのある光で、私は なるほど、と思った。

 

 

あの複雑にゆがんだ デリケートな顎と目の光りは一生忘れられない気がする。

 

 

 などというのは、単に私の思い込みかも知れないが、こんな証言(?)もある。その後うちの近所の齢とった鮨屋の親父と話がたまたま三島のことになったら、親父が何だか急に怒り出して、

 

「俺たちのことなんか人間と思っちゃいねえ、あれは狂人の目だよ」

 と言い放ったのである。

 

 

何か嫌なことでもあったのかと思ったら、ホテルに入っている鮨店で働いていたとき、三島が客として来た時の印象が悪かったのであるという。

 

 

親父は怯(おび)えたような話し方でもあった。

 

 

 

                                       

 

 

 

「 お礼まいり 」

徳岡孝夫 (とくおか たかお 元毎日新聞記者 1930~)

清流出版株式会社 2010年7月発行・より

 

 

 

 某日、(バンコクの)プレジデント・ホテルで昼食をとったときである。

 

 

メニュを眺めて決めかねている私に、三島(由紀夫)さんは言った。

 

 

「ヴィシソワズにしなさい。こういう熱帯でヴィシソワズは美味いよ。僕もそれにしよう」

 

 

 私はヴィシソワズの何たるかを知らなかった。

 

 

まもなくボーイが、例のシャーベット状の氷の上に載ったヴィシソワズを持ってきた。

 

 

私は食べ方を知らない。

三島さんは一さじすくって 「ちょっとぬるいな。もっとキリリと冷えてるといいんだが」 と、ボーイに向って英語で言った。

 

 

するとボーイは妙に挑戦的な態度で言い返した。

 

 

「では冷やし直して持って来ましょうか」

 こう書くと丁寧だが、あきらかに喧嘩を売るような物腰だった。

 

 

三島さんはちょっと鼻白んだようで 「いや、これでいい」 と言った。

 

 

若いボーイは、プイと向こうを向いて去っていった。

 

 

 私は胸中、三島さんにもこういう一面があるんだなあと感じた。

 

 

誰にも遠慮しない、こうと思ったら少しくらい常識外れのことも平気でする人と思っていたが、料理を突っ返すよりは食卓の平和な会話を撰んだのである。

 

 

もっと冷えたヴィシソワズがいいとボーイに文句をつけたが、

それは実は初体験の私に 「これはキリリと冷えているべきものだよ」 と教えたのだった。

 

ボーイはやや過剰に反応した。

 

 

冷やし直させてもいいが、そうすれば食卓の空気が少し気まずくなるのである。

 

 

三島さんは意外に常識的なところがあった。

 

 

                                  

 

 

 

2019年10月12日に 「作家の美食と寿命の関係」 と題して徳岡孝夫の文章を紹介しました。コチラです。 ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12533010209.html

 

 

 

 

左に行くと猿沢池、石段を上がると興福寺  10月6日撮影