「 日本人の自然観 」
伊藤俊太郎=編
河出書房新社 1995年8月発行・より
ラフカディオ・ハーンと神道 平川祐弘(ひらかわ すけひろ 1931~)
ハーンは日本ではお地蔵さんに着目します。
これはインドでも中国でもそんなに大事にされていないものが日本で大事にされた例です。
それは日本人が子供を可愛がるというのと特に関係があるのでしょう。
それはまた日本の母子関係の反映でもあるわけですね。
子供にとって最初の先生は母親だから、子供と母親の関係から師弟関係も決まってくる。
ハーンは松江の中学校で、ヨーロッパの寄宿学校と違って先生が生徒にとっての兄貴分であることに感心した。
鞭を持っていない、権威をもって臨まないということに非常な喜びを感じたんですね。
英国の学校は支配体制であって、支配の文化である。
ところが日本の先生はマスタフルではない、というのです。
日本では教師はマスタフルな顔をする必要がない。
それは今までずっと誤訳されてきたのですけれど、要するにインドなどに行くと、イギリス人が 「マスター、マスター」 と呼ばれていますね。
その主人と現地人の関係を考えればマスターとは何かは分かるだろうと思います。
ですから日本の学校の師弟関係は トム・ブラウン の学校の師弟関係よりも 『クオレ』 の中の師弟関係に似ているとハーンは見た。
~トム・ブラウンの学校生活~
イギリスの作家トマス・ヒューズの長編小説。1857年刊。「あるO・B」という筆名で発表された。高名なT・アーノルドを校長にいただくラグビー校の学生生活が、主人公の学生トム・ブラウンの目を通して描かれる。作者の体験に基づく学生間の友情、スポーツ、寮生活などの生き生きとした報告で、教訓的色彩は否めないが、学生小説の古典として評価される。(コトバンクより)
~クオーレ~
アミーチスの代表作で日本では『世界名作劇場』シリーズのアニメ『母をたずねて三千里』の原作として知られるようになった。またそれ以外に『愛の学校クオレ物語』としてもアニメ化されたことがある。
1861年に成立した統一イタリア(イタリア王国)で書かれた本で、子供向けに愛国心を説くための本として広く読まれた。小学3年10歳のエンリーコ(エンリコーとも)少年が新学期の10月から翌年7月までの学校での1学年(10か月)を過ごした日記が書かれている。舞台となるこの小学校はトリノにある。(ウィキペディア・より)
なぜイタリアの学校の師弟関係に似ているかというと、母子関係が密着しているから 『クオレ』 のイタリアでは先生は母親代わりとして現れるからです。
ハーンが愛読していたこの本の中に 「お父さんの先生」 という一節があって、そこに小学校に子供が上がる時のことが書いてあります。
先生に子供を渡せば、今まで自分だけが育ててきて自分のものであった子供がもう自分のものにならないと思った母親が、小学校の入学式で恋しくてボロボロ泣いてるんですね。
英訳者はボロボロ泣いてるのは子供の方だと誤訳していて、それはいかにも ありそうな誤訳だと思いました。
アングロサクソンの世界ではそうした時に母親がボロボロ泣くのとはとても考えられないと思います。
向こうは子供も犬や牧畜と同じように鞭で躾けるが、日本では植木みたいにして子供を育てているとハーンは言いますが、それも当っていたのではないかなという感じがしますね。
徳川時代の日本で先生が子供にビンタを食わせるなどといったことはなかったのではないでしょうか。
ところが、明治に来日したイギリスの上流階級の御婦人は、日本では犬の躾け方がなってない、子供の躾け方がなってないと腹を立てました。
そうした方は実は今でも多いのです。
”Spare the rod and spoil the child”(鞭を惜しむと子供はだめになる)
この諺はなるほどいまの日本によく当てはまりますが、だからといってそれでは、「イギリスではお子さんも、犬を躾けるのと同じように、きちんと躾けているんですね」 とでも言ってごらんなさい、イギリス人は途端にカッとします。
同じ鞭を使ったにしても、主観的には犬と人間の子とは別様に育てた、と思っていますから。
私は犬の躾けと人間の躾けとは当然どこかで つながっていると思うけれど、そうした共通性はあまり露骨に言ってはいけないことかも知れませんね。
8月25日 奈良市内にて撮影