「 日本人の自然観 」
伊藤俊太郎=編
河出書房新社 1995年8月発行・より
中世日本人の自然観 仏教を中心に 山折哲雄 (宗教学者 1931~)
【自然観と文化のさまざまな相違】
まず、ニコライ・レーリッヒ という人のことから始めましょう。
この人は1874年に生まれて1947年に73歳で亡くなっている。
ロシアのペテルブルグに生まれて、法学をペテルブルグで修めた。
しかし本来 絵の好きな人で、大学を卒業してから絵画を勉強します。
やがてロシア革命が起こり、亡命します。
ヨーロッパ、アメリカを転々と歩き回って、絵を描いたり展覧会をやったりしましたが、最後は1931年にインドに行きまして、ヒマラヤ研究に取り組みます。
そして生涯にヒマラヤの絵をたくさん描いてます。
そのニコライ・レーリッヒのヒマラヤの絵を見た時、これはどうもヒマラヤではないと思った。
こんなヒマラヤが あるものかと。
私も十数年前にネパールのポカラに行きまして、そこで正月を過ごした。
日の出によって浮かび上がるヒマラヤの荘厳な美しさを目の前にして、
びっくり仰天した。
そのときの印象からいうと、レーリッヒのヒマラヤの絵と私の見たヒマラヤとの間には天地のへだたりがある。
なぜそんなことになったのか。 これが問題です。
ニコライ・レーリッヒの生涯については、以前民博にいらした加藤九祚さんが書いておられる。
その書物で私はニコライ・レーリッヒのことを知ったのです。
その本の中に彼のヒマラヤの絵の写真が たくさんでてくる。
それをずっと見ていて、私は 「あ、これはイコンだ」 と思った。
ロシアのイコンに表現されている聖画のイメージがそのまま、ヒマラヤの絵に重なっている。
ヒマラヤ・イコンになっているというわけです。
十何年もヒマラヤに住んで、ヒマラヤを描きつづけながら、それでもイコンの枠組みから出ていない。
ヒマラヤ的自然の中に実際に入り込んでいながら、しかし自分の文化伝統の中から抜けでることができないでいる。
自民族の美意識のベースになっていたイコン的観念から自由になれない。
描く人によってヒマラヤがこんなに違ったものになってしまうのか、ということに本当に驚いたんです。
もう一人、写真家の例を挙げてみたいと思います。
私の好きな白川義員(よしかず)さんの写真の場合です。
氏は周知のように日本を代表する国際的写真家です。
イスラエル、アメリカ、中央アジア、インドはもちろん、世界の最も凄まじい自然を文字通り命懸けで撮り続けてきた。
アルプス、ヒマラヤ、アメリカ大陸、聖書の世界、仏教伝来、と次々に世界の写真家を驚かせる写真集を出し続けて、1981年には全米写真家協会から最高写真家賞を受賞したいます。
過去35年間に世界でたった9人しか受賞していない賞で、氏はその10人目の受賞者になりました。
その白川さんの写真は、どれを見てもすごいのですが、例えば中国で撮ったものをご覧いただきたい。
雲南省や広西省でのもののほかに安徽省のものもありますね。
これらの写真を見た時、私はそれが日本の山水画に見えた。
水墨の世界だと思ったんです。
専門家の方からは、そもそも山水とか水墨とかは中国からきたのだから
当たり前ではないかと言われそうですが、そのこととちょっと違う。
どうも白川さんのが写した中国の自然の景観は、中国の山水、水墨とは違った、日本的な水墨、山水ではないかと、そのとき私は思った
いまでもそう思う。
要するに完全に日本化された中国の 「山水」 なんですね。
私がここで言いたいのは、画家の目とか、写真家の目というのは、
彼らの背後にある文化の視覚や眼球を反映しているということです。
そういう伝統の目から自由になることは できないのではないか ということです。
彼らのカメラ・アイなり絵画のアングルのベースに、独自の文化や自然観によって支えられた、美意識の枠組みがもうできあがっている。
その枠組みからは 抜け出ることができないわけです。
奈良・興福寺の五重塔 8月5日撮影