「 歴史が遺してくれた日本人の誇り 」
谷沢永一 (たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社青春出版社 2002年6月発行・より
平安時代から鎌倉時代にかけて変ったことの一つは、土地に対する
あり方である。
平安時代までの一つの特徴は、土地が公有だったことだ。
ところが、鎌倉時代から戦国時代にかけて、土地は私有へと変る。
武士たちはどんどん新しい土地を耕して、その土地を私有地にしていったのである。
鎌倉時代はその土地私有時代の始りで、これが江戸時代になると、逆戻りする。
江戸時代、大名は自分の土地を持っていない。
かわいそうなもので、土地のない大名なのである。
日本の土地所有がひっくり返った時代である鎌倉時代から戦国時代にかけては、相続が乱れた時代とも言える。
幼い子供が死んだ父親の土地を相続しようというとき、叔父をはじめとする親戚が横から現れ、その土地を奪うといったことは よくあった。
子供がやがて成長すると、横領されたことを幕府に訴えることになる。
鎌倉幕府の仕事と言えば、この土地相続を巡る訴訟を裁くことである。
どちらの言い分が正しいか、明けても暮れても鎌倉幕府は必死に裁きつづけていた。
それをきちんと裁いたのが、鎌倉幕府の偉いところである。
北条時宗を描いた NHKの大河ドラマでも、相続を巡ってのシーンはあったが、あれはまだ抽象的相続でしかない。
問題の本質は土地の相続であり、もっと土地のことを描く必要があった。
その鎌倉幕府が揺らいだのは、元冠のときである。
元冠の役(えき)では元軍を退けたにもかかわらず、論功行賞ができなかった。
恩賞として武士に土地を与えようにも、与える土地がない。
鎌倉幕府としては辛いところであり、そのため鎌倉幕府の権威が失墜してしまったのである。
土地を巡る問題は、南北朝の対立の原因にもなる。
後鳥羽上皇が起こした承久の乱では、負けた後鳥羽上皇についた武士もけっこういた。
その連中は土地のかなりの部分を失うことになり、不満がたまった。
その不平分子によって、鎌倉幕府の滅亡後、南北朝の対立が生まれたのである。
南北朝の対立というと、天皇同士の争いに思われがちだが、そうではなく、土地を巡る武士の相続争いなのだ。
その南北朝について、出版社の誰かが、司馬遼太郎に
「書きませんか」 と言ったことがある。
その答えは、「あんなしょうもないもん、書きませんよ」 である。
司馬は、調停者も誰もいない争乱の馬鹿馬鹿しさを知っていたのである。
2019年5月2日に 「鎌倉北条氏の統治技術と裁判」 と題して山本七平と山崎正和の対談を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12380710036.html?frm=theme
奈良公園の飛火野にて9月21日撮影