「 歴史が遺してくれた日本人の誇り 」
谷沢永一 (たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社青春出版社 2002年6月発行・より
日本の宗教の一番根本となっているのは、浄土真宗に代表される鎌倉仏教である。
浄土真宗といっても、いまの本願寺のことではない。
親鸞がつくった当時の浄土真宗である。
浄土真宗にかぎらず、法然、一遍らがつくった鎌倉仏教こそが、日本の
本当の宗教であると私は考える。
鎌倉仏教の考え方は、外国の宗教とはかけ離れている。
この宇宙には、大日如来でもいいし、阿弥陀(あみだ)様でもいいし、そうした神様が満ち満ちておられる。
神様たちは、われわれ凡庸な人間を救ってやろうという悲願を持っていらっしゃる。
だから、私たちはたとえば阿弥陀様にお賽銭をあげる必要もなく、灯明(とうみょう)をつける必要もない。
拝む必要すらなく、何をする義務もない。
ただこうしているだけで、神様は救ってくださるのである。
鎌倉仏教が考えたのは、このように何もしなくてもいい宗教だったのである。
他の宗教にはお金がかかるのに、日本の根本である鎌倉仏教にはお金も要らない。
供物(くもつ)も要らない。
日本の宗教の場合、ただ救われるということだけである。
鎌倉仏教が到り着いた極は、一遍だろう。
一遍は一生不自由な身でありながら全国を回っている。
そして最後には自分の持っている物をすべて焼いて死んでいる。
一遍は、すべては無であるというところにまで達したのである。
その鎌倉仏教のあり方は、いまの日本にも見ることができるだろう。
いまの日本で一生懸命拝んでいる人がほとんどいないのは、拝まなくとも救われることを知っているからだ。
しかも、かなりいい加減である。
家には神棚があって、お仏壇があって、「天照大神」 と書いた額があって、昔なら台所に大黒様とお稲荷(いなり)さんがあって、大阪ならエベッサン詣(まい)りで買ってきた笹に縁起物がくくりつけられていて・・・・という調子である。
そんないい加減なことをしていても、自分たちは神様から見放されているといった劣等感を日本人は持っていない。
あれこれ考えることなく、安らかにいられるのである。
(略)
日本人は鎌倉時代に宗教を逸脱するほど立派な宗教をつくったにもかかわらず、これを壊した男がいる。
その悪人が、蓮如である。
蓮如は、親鸞死後の浄土真宗の八代目の後継者となっている。
親鸞は生きているとき、弟子を一人も持たないと言っている。
親鸞の弟子である唯円(ゆいえん)の手による 『歎異抄(たんにしょう)』 には、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさうらふ」 という有名なフレーズがあるが、にもかかわらず、蓮如は親鸞の後釜を名乗っている。
すでにお話ししたとおり、蓮如はあちこちで一向一揆を起こさせたばかりではない。
要所要所にお寺を造って、そこで営業活動を行った。
蓮如は支配者であり、政治家であった。
これを堕落であると、私は思う。
その蓮如の後継である僧侶たちが、日本の宗教を無茶苦茶にしてしまった。
親鸞はもともと朝廷によって罪人として追放された人物である。
その後、常陸(ひたち)のほうを放浪して苦労している。
朝廷からすればアウトローのような存在だったのだが、いま西本願寺に行くとどうだろう。
紫の衣を着た親鸞の画像があり、親鸞上人は天皇陛下から紫の衣をいただいた立派な方だったとなっている。
そんなことがあるだろうか。
(略)
ともかく、いまの日本の仏教は葬式仏教と言われるが、葬式仏教はお金をとるためにあるようなものだ。
坊さんが並んでお経を唱えれば、それだけでお金がもらえるように なっている。
加えて浄土真宗では、西本願寺と東本願寺が二〇〇年間も大喧嘩している。
浄土真宗の中にも位がつくられていて、その位の取り合いの権力闘争まで行っている。
そんなものは、宗教でも何でもない。
こんな具合にいまの仏教は、日本の本来の宗教ではないのだが、日本人が鎌倉時代にきわめてユニークな、宗教とはいえないような宗教を生み出したことはたしかだ。
そこに、日本人の独創性を見ることができる。
奈良ホテル 7月14日撮影