奈良仏教から二・二六事件まで  | 人差し指のブログ

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「 二十世紀を読む 」

丸谷才一 (まるや・さいいち) / 山崎正和 (やまざき・まさかず)

中央公論社 1996年5月発行・より

 

 

 

 

山崎 日本の宗教と政治の関係について、私なりの整理をちょっと述べさ

    せてください。

 

    日本に仏教が入ってきて奈良仏教というものが生まれます。

    これの本質は学問でした。

 

    同時に、国家鎮護の拠りどころでした。

 

 

 

     やがて平安朝の初期に入ると、いわゆる密教が入ってきて、

    今度は学問のかわりに呪術になります。

 

 

    呪術だから、もっと有効に国家鎮護ができるわけで空海も最澄も、

    いずれも競って呪術の力を使って国家鎮護をめざしました。

 

    ここにも個人や自己の救済は出てきません。

 

 

 

     平安末期になりますと、そこに末法思想が広がってきて、

    個人救済という問題が出てくるんですね。

 

 

    だけどそれは、あくまで死の恐怖に対する慰めなんで、藤原道長

    (ふじわらのみちなが)が死ぬときに阿弥陀如来(あみだにょらい)の手から糸

    を引っ張って、それを握って死んだとか、来迎図(らいごうず)というのが

    たくさん描かれたりしましたが、それはあくまでも死後の問題であっ

    て、人間の道徳的善悪とか、現世の人生をどう生きるかということと

    は、無関係なんですね。

 

 

 

     ところが鎌倉に入って、いわゆる鎌倉仏教が現れたときに、初めて

    個人の内面が問題になるわけです。

 

 

    当時、無常観が非常に強まります。

 

 

    それと同時に、生きることが宗教のテーマなんだということが初めて

    問題になってきて、人間の生きる態度と宗教とが、初めて結びつく

    わけですね。

 

 

    いわば罪の救済をどうするかという問題が、大きな課題になってき

    ます。

 

 

     そのときに、大きく分けて、三っの宗教的な答えが出たと、

    私は思うんです。

 

 

    ひとつは禅です。

    これは自力なんですね。自力救済。自分の人格を磨き、瞑想にふけ

    り、そしてそのなかから救いを求めていく。

 

 

    ですから禅宗では、もちろんお経もあるし、御本尊もあるけれども、

    それよりも座禅を組むことが大事だし、何よりも大事なのは自分の

    師匠なんです。

 

 

    師から人間的な影響を受けて、自分を磨くことが大切なんです。

 

 

    したがって禅宗では、頂相(ちんぞう)といって自分の師匠の絵を描い

    て、それを拝むことが、非常に大事なことになるんですね。

 

 

 

     この場合に国家との関係はどうなるかというと、これは特定の個人

    の人格を禅宗によって陶冶して、その英雄の影響を通して国家を治

    めようとする。

 

 

    したがって禅宗のお坊さんたちはみんな武将と結びつくわけで、

    その武将に悟りを開かせて、立派な武将に天下を治めさせる。

 

    間接的な国家統治なんですね。

 

 

 

     二番目は大まかにいえば、他力なんです。

 

 

    他力本願というのは要するに、人間の自己救済の能力というもの

    に、初めから諦めをつける。

 

 

    人間はしょせんは弱いもので、どうしようもないものだと認めることに

    よって、救いを探そうとするわけです。

 

 

    この立場は、少し理屈っぽく言うと、倫理的な善と宗教的な善とを、

    区別するわけですね。

 

 

    それこそ 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 

    ということになるわけです。

 

 

     つまり、この世で倫理的に善いことをすることと、仏様に救われる

    ということは別問題だと考える。

 

 

    人間が自分で自分を救うことなどを考えるのは傲慢なことであって、

    そういう考えは初めから捨てて、とにかく南無阿弥陀仏と言って、

    仏の救いの本願にすがろうというわけです。

 

 

    こういう立場からいいますと、教養も苦行もいらない。

 

 

    子どものような無邪気な気持ちになって、手を合わせるのがよいこ

    とになります。

 

 

 

     もちろんこれの元祖は法然ですが、徹底したのは親鸞です。

 

 

    親鸞までいくと、まあ悪くいえば居直りで、『化城の昭和史』 にも出

    てきますが、親鸞は 「私は他の宗教をみんな立派だと思う。

 

「化城の昭和史」~寺内大吉が書いた小説仕立ての昭和史・人差し指

 

    しかしそんな辛い修業は私にはできないから、私はただ南無阿弥陀

    仏と唱えることにする」 と、こう言っているくらいなんですね。

 

 

 

丸谷 ものすごい擦れっからしの論理で(笑)、そのくせ、徹底して論理的

    なのね。

 

 

山崎 そうなんですよ。これを私は大衆個人主義と呼ぶ。

 

 

    つまり個人は救済するんです。しかし、その個人に英雄的なものは

    いっさい認めない。

 

    必要としないし、もともと存在を認めない。

 

 

    国家に対していうと、これはもちろん無関心になります。

 

 

    現在は、東本願寺、西本願寺、いずれも壮麗な寺院をもっていまし

    て、北陸から東北にかけてたいへんな布教勢力をもっていますが、

    しかし浄土真宗の門主が国家鎮護のお祈りをしたということは、

    あまり聞いたことがない。

 

 

    あくまでも大衆個人なんですね。

 

 

    教団のなかには指導者がいますけれども、国民に対して指導者意

    識がまったくない宗教です。

 

 

丸谷 浄土真宗の個人主義というのは徹底しているから。

 

 

山崎 三番目が、この日蓮宗なんです。

 

 

    日蓮は複雑で、その一部は信仰態度の点で、きわめて意思的であ

    り、英雄的なまでに個人主義的です。

 

    殉教者も多く出るし、倫理的にも厳格です。

 

 

    室町の町衆には日蓮信者が多いのですが、彼らの近代的な商業道

    徳は日蓮信仰に支えられていたといいます。

 

    町衆の日蓮は、マックス・ウェーバーの言う、資本主義を生んだ

    プロテスタンティズムに似ていたといえるかもしれない。

 

 

    しかし、すくなくともその一部は、本質的には他力本願なんです。

    ただ、その他力の構造が浄土真宗、親鸞とは正反対でした。

 

 

    しょせん、個人というものは宗教的に無力である。

 

 

    悟りを開かせようと思ったってとても無理だと言いながら、しかし

    親鸞は少なくとも惡の自覚だけは要求していたわけですね。

 

 

    「私は悪いことをしました。南無阿弥陀仏」 と、

    彼はこう言っていたわけですが、それさえみんなに要求するのは

    無理だと考えたのが、一部の日蓮信徒です。

 

 

    そういう大衆を相手に救済をしようと思ったら、どうすればいいか。

 

 

    国家そのものを宗教的な装置にしてしまえばよろしい。

    そうすれば自ずからみんな救済される。

 

 

     これは後に、田中智学が非常にわかりやすく言っています。

 

田中智学~1923年(大正12年)11月3日、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的として立憲養正會を創設し総裁となった。wikipedia より

 

    「世界の一人ひとりを同じ悟りに従わしめることはまったく不可能だ

    から、世界そのものをあげて法華経化せしめればよろしい」。

 

 

    これは、同じ他力なんですが、まず環境からつくってしまえば嫌でも

    人間は救われるという考えで、親鸞と正反対になるわけですね。

 

 

丸谷 国家社会主義を引っ繰り返して、国家宗教主義ですね。

 

 

山崎 まあ、そういうことですね。  どちらも大衆を信じていない。

 

 

     ところが、おもしろいんですね。そういうふうに踏み込んでいきます

    と、宗教は世界を変えるわけですから、それ自体がひとつの

    イデオロギーとして働きます。すると政治的になります。

 

 

    政治的になると、一回りして先ほど述べた英雄的個人主義が生ま

    れてくることになります。

    つまり指導者が必要なわけだ。(笑)

 

 

丸谷 僕は最初、田中智学が日蓮を曲解したのかなと思っていたけれど

    も、あながち曲解とも言えないようですね。

 

 

    ああいう侵略主義的なもの、それから国家主義的なものは、もともと

    日蓮にはありますし、いま山崎さんがおっしゃったような、信仰のた

    めに国家を利用するという気持ちは、非常に熱烈にあって、それは

    日蓮なりの論理として整っていたんじゃないか。

 

 

    日蓮は天皇をまったく認めていないんですね。

 

 

山崎 そうですね。 それどころか蒙古襲来のときにも、正しい宗教をもた

    ない日本なら滅びてもいいと、彼は思っていたんですからね。

 

 

丸谷 そうです。だから、祈禱を真言宗に頼んだせいで、必ず蒙古に負け

    て日本はやられるんだと、予言したんです。

 

    ところが負けなかったものだから非常に困った。

 

    日蓮はあれを神風と言わないで秋風と言うんです。(笑)

 

 

     それから承久(じょうきゅう)の乱の時、後鳥羽(ごとば)院は真言宗に

    頼んで祈禱をしてもらったし、北条義時(ほうじょうよしとき)は法華に頼ん

    だ。

 

    だから、後鳥羽院が負けて流されたのは当然である、というようなこ

    とをいうんです。

 

 

    そういう調子でして、要するに天皇は、たんに法華経を普及させるた

    めの手段にすぎないわけです。

 

 

山崎 それはそうでしょうね。

 

 

丸谷 その考え方を田中智学も信奉していたし、北一輝も信奉していた

    し、石原莞爾も信奉していたと、思うんですよ。

 

 

    それであの有名な、二・二六事件の時に、青年将校たちが秩父

    宮を担ごうとしたという逸話がありますね。

 

 

    僕は、なぜこんなに秩父宮にこだわるんだろうと、不思議だったんで

    すが、今度、はじめてわかったような気がしました。

 

 

    昭和天皇は法華の信者になる見込みがなかったんですね。

 

 

山崎 なるほど。(笑)

 

 

丸谷 インテリだし、天皇機関説を信奉しているから、おそらく秩父宮は、

    西田税がわりに近くにいたし、それから西田税が北一輝のところに

    連れて行ったというゴシップがあるくらいですから、そんなことから

    秩父宮は法華経に対して親近感をもっていると見られていたのでは

    ないでしょうか。

 

西田税(にしだみつぎ)  日本の陸軍軍人、思想家。

日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、昭和11年(1936年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌昭和12年(1937年)、北とともに刑死した。(Wikipediaより

 

    そうでなければあんなに秩父宮を大事にするのは、僕はおかしいと

    思う。

 

 

    たぶん昭和天皇を廃し、秩父宮を立て、彼によって本門戒壇を実践

    するという希望、あるいは妄想があったのではないか、というのが、

    私の小説的な空想です。

 

 

 

                         7月11日 奈良市内にて撮影