「 歴史が遺してくれた日本人の誇り 」
谷沢永一 (たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社 青春出版社 2002年6月発行・より
歴史文献がいかに嘘か を見てきたが、これは日本の文献だろうと、
外国の文献だろうと同じである。
外国の文献だから信じてもいい というのは、何の根拠もない。
それどころか外国の文献だけで日本を見ていると、とんでもないことに
なる。
外国の文献を読み、これを信じてしまったがために、とんでもないことを言いだしたのは、儒者の藤原惺窩(せいか)(1561~1619)である。
大阪城が陥落、豊臣氏が滅亡し、戦乱の世が終わった元和偃武(げんなえんぶ)のころである。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、朝鮮半島から捕虜として連れられてきた男がいた。
捕虜といっても、ふつうに町を歩いているのだが、その男に対して藤原惺窩がこう言ったのである。
朝鮮がもし兵隊を募って日本を征伐しようとしてやってくるならば、まず
日本人を通訳にして、仮名書きの布告を掲げることだ。
そして民衆を納得させたら、朝鮮の軍隊はいささかの被害もなく、白河関(しらかわのせき)まで行くことができるだろうと言っている。
要するに、日本を攻めてくれと、惺窩は述べているのである。
この藤原惺窩をもって反日的日本人の第一号とするのだが、なぜそうなったかというと、外国の文献ばかりを読み、これを鵜呑みにしたからである。
当時の外国の文献と言えば支那の書物であり、支那は聖人の国と書かれてある。
一方、日本はどう書かれているかというと、武をもって天下を治めている。
中華文化に浴していない。
支那の文献をそのまま受け取った藤原惺窩にすれば、日本は何とも野蛮な国であり、この野蛮な国を聖人の国に変えてしまいたい。
だから日本を攻めてもらいたいのである。
支那では聖人の教えである史書五経をテキストとして科挙という試験を実施し、それに合格した者、すなわち聖人の教えを身に体したものが高級官僚になって聖人の政治を行っていると惺窩は信じたのである。
実際は桁外れの賄賂を取るのが支那官僚である とは知らない。
まだ慶長年間のことで、支那の実情がわからなかったから、そんな考えが登場したのかというと、そうではない。
中世史の専門で、大正年間の日本最高の歴史学者と言ってもいい原勝郎という人物が、同じようなことを言っている。
さすがに攻めてくれとまでは言っていないが、とにかく理想的な政治が行われている国が支那であると、『日本中世史』(平凡社・東洋文庫)の付録「貢院の春」 に彼は書いている。
この系譜は、現代にもつづく。
森嶋通夫(みちお)と石橋政嗣とが非武装論と旧ソ連に降伏せよなどと唱えているが、彼らは藤原惺窩の後継者である。
もちろん、支那の実態については、賢い人は気づいている。
秀吉が生きているころの時代は難しいにせよ、元禄の伊藤仁斎(いとうじんさい)(1627~1705)あたりになると、支那の実態を全部知っていた。
支那の書物を読み、あとは勘である。
元禄あたりから先、支那が聖人の国であると考えた儒者はいない。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)にしろ山崎闇斎(あんさい)(1618~82)にしろ、支那に攻めてくれとは言わない。
いや闇斎にいたっては、返り討ちである。
お弟子さんが闇斎を困らせようと思って、こんな問い掛けをした。
もし孔子が大将に孟子を副将にして支那が日本へ攻め込んできた場合、どうしたらいいでしょうか、という問いだ。
闇斎はただちに、孔子と孟子をひっとらえて支那へ送り返せと答えた。
外国の文献を鵜呑みにしなければ、まっとうな答えが出てくるのである。
2016年7月24日に 「支那に興味が無かった日本の儒者」 と題して高島俊男の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12175445757.html?frm=theme
2018年11月10日に 「江戸期のインチキ学者佐藤信淵」 と題して
谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12401163899.html
7月6日 奈良公園の猿沢池附近にて撮影