遠くまで行った明治の漁民 | 人差し指のブログ

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「 明治メディア考 」

加藤秀俊 (かとう ひでとし) / 前田愛 (まえだ あい)

中央公論社 昭和55年4月発行・より

 

 

 

 

[ 加藤秀俊 ]  たとえば宮古島の漁師がソロモン群島まで行って

           カツオ漁をやっていますが、太平洋が彼らの動きまわる

           場所なんですね。

 

           いわば漂泊漁民です。

 

 

そして漁民というのは、もともと漂泊的だと思います。

 

 

この漂泊の伝統というものを日本の文化はあまり正当に評価していなかった。

 

 

 

その漁民の精神の上に乗っているのは何かというと、商業だと思うのです。

 

商業というのは動くことに意味がある。

 

 

       だから、農工中心の思想はもちろん尊重すべきだけれども、漁・商、つまり漁業と商売をつなぐような、もうちょっと動きのある生業に

注目しなければ ならないだろうと思うのです。

 

 

漁・商は同時に情報伝達者なんですよ。

 

 

 

 実際、漁民というのはやたら動いている。

 

 

宮本常一さんに 「海ゆかば」 というたいへん面白いエッセイがあります(『エナジー』 35号 「日本の海洋民」 所収)。

 

 

宮本さんが大坂で会った老漁師の話なんですが、この人が十六,七歳の明治八年に、それまでいろいろ制約のあった漁場が開放されて日本中

どこで魚をとっても いいことになった。

 

 

そこで彼は仲間の漁師と二人で小さな船で西へ西へと旅漁に漕ぎ出していったわけです。

 

 

瀬戸内海のあちこちで魚を釣って、その魚を売ってはうまいものを食べ、面白い面白いと言っているうちに下関に着いた。

 

 

向こうを見ると広い海がある。 きくとその先は玄界灘だという。

じゃそっちへ行ってみようと漕ぎ出して行く。

 

 

ついでにその海を渡ってみようと、壱岐、対馬を経て、とうとう朝鮮へたどりついてしまう。

 

 

魚はどんどん釣れて面白くて仕方がない。

言葉は通じないが、釣った魚を買ってくれる人はちゃんといて不便はない。

 

 

とにかく行きつくところまで行ってみようと、朝鮮半島の西海岸を北上して、途中で正月を迎え、遼東半島をまわって中国の天津の近くまで行ってしまう。

 

 

そこではじめて会った日本人に、このへんを うろうろしていたら役人につかまるだろうから早く帰りなさいと さとされるけれども、それじゃ南へ行こう、南へ行くとどこへ着くのかときくと、天竺だという。

 

 

じゃ天竺へ行こうと言うと、その小舟じゃ無理だからやめなさいと言われて、また、もと来た海を内地まで帰ってきたというんですね。

 

 

漁師に会っていると、こういう胸のすく話がいくらでもあると宮本さんが書いていますけれども、こういう精神は農民や工業民にはないものでしょう。

 

 

だから漁民は情報の伝達者であったでしょうし、商人もそうだった。

 

 

ところがそれは、歴史の表面にはあまり出てきていない。

 

 

このへんの再評価をしてみる必要がありそうです。

 

 

 

                          6月10日 奈良市内にて撮影