明治初期の激しい変革   | 人差し指のブログ

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「 山本七平全対話 8 明日を読む 山本七平他 」

山本七平 (やまもと しちへい 1921~1991)

株式会社学習研究社 1984年12月発行・より

 

多様で多層でオリジナルな発想     糸川英夫(1912~1999)

                                1982、12 『活性』

 

 

 

 

 

山本 明治元年から十年頃までの新聞を読んでみたのですけれども、

    戦後の激しい変革だとか、現在は猛烈な変動の中にあるといわれ

    てはいるが、明治のそれとくらべたら驚くほどのことではない。

 

 

糸川 まったくおっしゃるとおりで、明治初期にはたいへんな数の精神病

        患者が出ている。

 

 

山本 そうですか。 想像できますね。

 

 

糸川 それで精神医学が大きく進歩したといわれているほど、たいへんな

    変革だった。

 

 

山本 新聞を読んであらためて考えさせられたのは、明治人のみごとと

     いうほかはない発想。

 

    それは驚くべきものなんですね。

 

 

糸川 ほう。

 

 

山本 たとえばランプというものに出逢う。

    ところが一瞬にして自分で作ってしまうんです。

 

 

    しかも明治も四年になると、自分たちの編み出した独自の方法で

    石油を掘り出してしまう。

 

    そして分留・精製までしている。

 

 

    その装置はというと、それもまた自分たちの力で作っている。

 

 

    だが、その頃のことですからガソリンが混じっていたのでしょうね。

    時々ランプが爆発したらしい。(笑)

 

 

    それで石油を買うときに注意しろとか、安いものは買ってはならん、

    といった東京府令が出ている。(笑)

 

 

 

糸川 掘るのから精製まで独自の方法を編み出しているんですね。

 

 

山本 そうなんですよ。石油の掘削、精製の技術が、外国から入ってくる

    のは確か明治十七年頃なんです。

 

 

    そのとき 「俺たちのやり方でやればいい」 という論争にもなってい

    る。

 

    ところが、「この方法が便利だ」 となると、たちまちやってのけてしま

    う。

 

 

    ランプが出ると途端に行灯(あんどん)がなくなってしまう。

 

 

糸川 学習力があるということですね。

 

 

山本 それはすごいものですね。

    レンガ建築の請負いをいたします、といった広告も出ている。(笑)

 

 

    東京府の牛の屠殺は二十頭になったという記事もあるかと思うと、

    明治十年になると、牛鍋を食わないのはばかだなんてのも出てく

    るんです。(笑)

 

 

     こうして変化に平気で応じていけるということは、いったい・・・・と

    思ってしまう。

 

 

糸川 外国に行って海や湖に出くわすと、僕はいつも日本の櫓(ろ)を思う

    んです。

 

    なんてすごい発想であり、オリジナリティーなんだろうって。

 

 

    向こうはオールで、漕ぐときはプラスの力になるけど、抜くときは

    マイナスになる。

 

 

    ところが日本の櫓はどちらもプラスの作用をする。

 

 

山本 なるほど、外国には櫓がありませんものね。

 

 

糸川 それがまた簡単なメカニズムです。

 

 

    こうした独創性を持っているのだから、将来は期待できる。

    僕はそう思っているんですけどね。

 

 

                                      

 

 

『 幕末維新異聞 「西郷さんの首」 他 』

童門冬二(どうもん ふゆじ)他

中央公論新社 2002年12月発行・より

 

志士 石坂周造の転身 ・・・前川周治・・・『歴史と人物』 1973年11月号

 

 

 

 石坂が明治四年に資本金三万円の長野石炭油会社を興し、 現地で 

「くそうず」(原油)を採掘して石炭油(灯油)の精製に成功したのは、事実とされるけれども、石炭は長野地区での初の採掘者ではないし、精製でも最初の成功者ではなかった。

 

 

長野での採掘は、石坂企業より十六年前の安政元年に始められているし、精製も、業者が佐久間象山からランビキ法の指導をうけて、慶応年間には少量ながら製品を市場に出している。

 

 

佐久間象山の遺品のなかに、象山がランビキ法伝授に使ったと推定される蒸留器がある。

 

 

これまでの油史などには、山下真斎が山田竜斎に託した見本油が、長野油田からの採取原油だったようにあるけれど、蒸留によって製出された石炭油(粗製灯油)であって、「くそうず」(原油)ではなかった。

 

 

石坂も、はっきり 「石炭油」 といっている。

 

 

長野石炭油会社(のち石油会社と改称)は明治五年、資本金を十五万円に増資し、アメリカのように機械掘りを行うこととして、かつての函館領事で石油には未経験の アンブロス・C・ダン を技師として雇い入れた。

 

 

年給一万円で三ヶ年雇用の契約だった。

 

 

この ダン に手配させた三台の輸入機械を、長野、相良、越後出雲崎の三所で使用することとし、まず長野の茂菅(もすけ)で試みたが不成功となり、石坂は ダン を技術未熟の理由で半年で解雇した。

 

 

ダン はこれを不服として提訴。 以来、係争が数年にわたった。

 

(略)

 

一方、ダンとの訴訟は石油会社の敗訴となって、賠償を果たさなくてはならない窮地に追い込まれるに至った。

 

(略)

石油会社は、敗訴となって、ついに破局を迎え、社会にも大きな衝撃を与えることとなった。

 

 

 

 

                          7月25日 奈良市内にて撮影