「 山本七平全対話 8 明日を読む 山本七平他 」
山本七平 (やまもと・しちへい 1921~1991)
株式会社学習研究社 1984年12月発行・より
~ 原子力開発の歴史と究極兵器について 秦郁彦 ~
山本 そこでまず歴史的に順を追ってたどっていくという形で、原爆を開発
しようという発想そのものが、何を起点として生まれて来たか、そこ
から探求する必要があるわけですか。
秦 物理学一般の発展の中から、原子物理学という領域が出てきました
ね。
そして原子物理学の研究が進んでくると、核分裂という現象があり、
その際に巨大な余剰エネルギーが出てくることもわかってきたわけ
です。
さらに自然の状態では核分裂が起こらないのを、人為的に可能とす
る方法が発見され、それが軍事的に利用できるということがわかっ
てきたのが、1930年代後半です。
当時は、核物理学の情報は研究者の間で交換されていたので、
先進諸国の間では、だれもが原爆の開発者になりえた状態でした。
山本 日本にも、原爆というものがありうるという常識は、戦争中からあり
ましたね。
ありえないものとはだれも思っていなかった。
われわれもそうでした。日本が作っているなんていうデマも飛びまし
たからね。(笑)
デマはかなり早い時期からありました。
そして確か、田中館愛橘氏が、マッチ箱一つの分量で都市を全滅さ
せうる兵器が理論的に可能だと、貴族院で演説したことがあるんで
す。
秦 田中館さんの演説はたしか昭和19年だったと思います。
山本 それを われわれがどういうわけか、日本は 原爆を開発していると
いうふうに受け取ったんですわ、ルソン島で。(笑)
これは 「神だのみ」 的な希望的な観測でしょうが、マッチ箱一個ぐ
らいの大きさで、戦艦なんていうのは、一瞬にして吹き飛んじゃうん
だそうだという話は、実際に聞きましたよ。
ですから、原爆ができうるという常識は、案外みんなにあったんで
す。
秦 戦争が始まったときには、漠然とではあるが、そういう爆弾がひょっと
したらできるんじゃないかということを、かなりの人が知っていたとい
うことですね。
ただ実際問題として、それを兵器に仕立てるためには、巨大な工業
力と技術力を必要としますから、第二次大戦が始まったときに、各
国の政治指導者が考えたことは、こういう爆弾を、どの国が戦争に
間に合うように作るだろうか。
もしどこかが作るとすれば、こちらも作らなければいけない。
しかし、間に合わないものならば、飛行機を作り、戦車を作るほうに
労働力と経費を投入すべきだという考えですね。
山本 なるほど、そういった発想に基づく討論は、原子力の平和利用につ
いても、外国にはあります。
秦 日本もいちおうその点を検討したんですが、おそらく第二次大戦に
は、どの国も間に合わないだろうという判断をしちゃったわけです。
そこで研究をストップしてしまった。
とくに日本のような貧乏国では、どうせ間に合わない兵器ならば、
全然手をつかないで、もう少し急ぐものにエネルギーを向けたほう
がいいという判断だったんですが、この見通しは完全に狂ってしま
いました。
山本 うーん、平和利用における日本人の見通しも、狂ってないのかな。
秦 戦前の子どもの冒険小説でよく登場していたのは、いわゆる殺人光
線なんですよ。(笑)
原子爆弾より殺人光線だったわけです。
ところが、この殺人光線というのは、皮肉なことに、核兵器の次にこ
れから実用化されるという段階にきているレーザー光線と同じような
ものです。
それに当時の日本としては、核分裂による爆弾を作るのははじめ
からあきらめざるをえなかった。
なぜかというと、原料になるウラニウムの鉱石が、日本国内にも、
日本が占領していた満州や中国にもほとんどなかった。
結局、ドイツがこの面において進歩していましたから、いろいろな条
件がそろえば、おそらくナチス・ドイツがいちばん先にこの兵器を完
成させたかも知れない。
ザクロの花 6月8日 奈良・東大寺二月堂附近にて撮影