毛沢東と周恩来の対立と儒教  | 人差し指のブログ

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「 二十世紀を読む 」

丸谷才一 (まるや・さいいち) / 山崎正和 (やまざき・まさかず)

中央公論社 1996年5月発行・より

 

 

 

 

丸谷 マルクス主義の影響よりも中国の伝統的反体制思想によって、

    毛沢東は心を強くとらえられていた、というところでした。

 

 

    そのさきを、つづけて下さい。

 

 

山崎 もうひとつ、もし彼が西洋的なマルクス主義で革命をやっていれば、

    「永久革命」 という思想は出てこなかっただろうと思うんですね。

 

 

    毛沢東は、めでたく天下をとって国家主席になってから、主席の

    資格で自分の部下に対して革命をおこすわけですよ。

 

 

    要するに 「造反有理」 でしょう。

    彼にとって、生涯、イメージとしてあるのは造反なんです。

 

 

    とても普遍的イデオロギーというものじゃない。

    統治の論理がないんですから。

 

 

丸谷 毛沢東と周恩来とは、この問題について対立してなかったのかどう

     か。

 

 

山崎 それはもう、正面から対立していたんじゃないですか。

 

 

丸谷 たぶんそうだろうと思うんですね。

 

 

山崎 フランス帰りのインテリの周恩来と、一度も中国から出たことのない

    農民出身の、しかも湖南第一師範学校卒業の毛沢東ですからね。

 

 

丸谷 要するに知識人の文による統治という考え方が中国にはあるわけ

    ですね。

 

 

    これが、非常に大事なものなわけです。

 

 

山崎 漢の高祖以来ね。

 

 

丸谷 ええ。 孔子が理想として考えていたのがそれでした。

 

 

    孔子は諸国を歩きまわって、自分が雇われて、知識人による統治を

    おこなおうと望みましたが、王たちから相手にされなかった。

 

 

    ところが漢の高祖、つまり劉邦は、天下を取ったものの、

    ならず者ばかりの集団ですから、朝廷がすこぶる行儀が悪い。

 

 

    閉口して、彼らに礼儀作法を教えるための先生として孔子門下の

    末流である儒者たちを採用したんですね。

 

 

    これは豊臣秀吉が荒くれ大名たちを洗練させるため、茶道をやらせ

    たのとよく似てますが、儒者たちはなかなか巧妙で、お作法の先生

    からイデオロギーの先生に転身してしまった。

 

 

    つまり知識人による政治ですが、それを引き継いでいたのが周恩来

    だったろうと思うんですよ。

 

 

     ところがその周恩来の原理、あるいは、儒教的原理、ないし論語

    的原理と、それに対立する反儒教的論理、あるいは 『水滸伝』 的

    方法、そういうものとの対立が、必ずあったに違いない。

 

 

    その対立をうまくごまかしながら やっていったのが、周恩来と毛沢

    東二人の関係だったんじゃ ないのかな。

 

 

    僕は、片方だけがごまかしたのではなくて、お互いに 二人で、

    一所懸命ごまかしあったんじゃないか という気がするんですよ。

 

 

山崎 まさに、そうでしょうね。

 

 

丸谷 政治というものは、そういうものでしょう。

 

    しかも、民衆はそれを嗅ぎつけていた。

 

 

     そこで妥協をすると見せかけたり、対立しなきゃならないときは

    対立したりした。

 

 

    だから、孔子、林彪批判運動の 「批林批孔」 というのも、周恩来

    の儒教的論理に対する反対なわけですよ。

 

 

山崎 そう、私もそれがいいたかった。

 

 

    あの 「批林批孔」 というのは、本音だったでしょうね。

 

 

    とくに 「批孔」 のほうです。 これは、語るに落ちるというやつで、

    毛沢東が 『水滸伝』 的人間で、反儒教主義者だったことの証拠だ

    といえるでしょう。

 

                                     

 

 

2018年10月27日に 「毛沢東のコンプレックス」 と題して井沢元彦と金文学の対談を紹介しました。コチラです。 

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12412289141.html?frm=theme

 

 

 

 

                          7月2日 奈良市内にて撮影