満州の匪賊の実態  | 人差し指のブログ

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「 二十世紀を読む 」

丸谷才一 (まるや・さいいち) / 山崎正和 (やまざき・まさかず)

中央公論社 1996年5月発行・より

 

 ~ 匪賊と華僑 ~   

   フィル・ビリングズリー /山田潤訳 『匪賊 近代中国の辺境と中央』

 

                  高島俊男 『中国の大盗賊』

 

 

 

 

 

丸谷 まず、なぜ匪賊が生じるのかということについて、ビリングズリー

    は、それは人が土地からあぶれたときだ、と規定するんです。

 

 

    共同体が安定して正常に機能していれば、荒くれ者たちも農業に従

    事しているが、働くべき土地がないときは、そうはいかないというん

    です。

 

 

    また、周辺民族が伝来の土地を奪われて匪賊になることも多かった

    らしい。

 

 

    また、新開地である満州に見られるように、満州に流入してきた漢

    民族が、とかく排斥の的となりやすいから、自衛のために匪賊となる

    しかないという場合もあった。

 

 

    それから、出稼ぎ人も匪賊になることがあったというんです。

 

 

     匪賊の年齢構成は、だいたい若い男が多かったといいます。

 

 

    武装して自衛する習俗のある村落においては、賊に加わるというこ

    とは世間を学ぶ機会だと考えられていた。

 

 

    つまり、学校の役割をはたしていたわけですね。

 

 

    十六から二十歳までの男子、ときには女子を地元の賊集団に預け

    て修業させることがあったといいますから、これは若衆宿みたいなも

    のですね(笑)。

 

 

    河南省の賊集団では、過半数が年少者で、それも十代前半の少年

    で占められていて、残りは二十代の青年が大部分だった。

 

 

    三十代が、本式の賊になるか、足を洗うかの分岐点であった。

 

 

    満州では、頭目の平均年齢は二十五、六歳であったようですね。

 

 

 

     次に、どういう人間が頭目になるかですが、一時は栄えた中農家

    族の生まれが多かったようですね。

 

 

    家運の零落とか、社会的上昇の道を阻まれている不満とか、若気

    のいたりとか、そういうもので彼らはこの道に入るんです。

 

 

    そして、頭目にはカリスマ性があった。

 

 

    さらに、いったん官途についたけれども、政情の急変で路頭に迷うと

    か、復讐のために賊集団に身を寄せるとか、義によって殺人を行っ

    てやむをえずにこの道に入るとか、そういう者も多かったといいま

    す。

 

 

     女の頭目の中には、夫の仇を討った結果、賊になる者もあった。

 

 

    吉林省の一枝華(イージーホワ)という女頭目は、良家の娘で、夫が無

    実の罪で投獄されたのに怒って賊になり、一時は千人規模の集団

    を率いたといわれています。

 

 

    もっとも、この本には伝説を集めて作った本という性格が半分ある

    わけで、彼女については芸者上がりの日本人だという説もあるか

    ら、本当のところは分からないんだな、これが(笑)。

 

 

     村のゴロツキタイプの人間は副頭目に多く、本当の頭目になるに

    は、ことに集団が大きくなった場合には、情勢を見抜く鋭さ、政治、

    軍事の豊かな体験、それから事態処理の経験による自信、

    こういうものが必要だったんです。

 

 

    「どんな稼業をやっても偉くなれるような感じの人」 

    という印象を与える人が頭目には多かったらしいんですね。

 

 

     面白いのは、満州馬賊の頭目である小日向白朗は、

    「私は、常にお祭りの神輿のように、彼らに担がれたい」

    といったというんですね。

 

 

    彼が日本人なのに頭目になれたことでも分かるように、指導者の

    選出法は常に民主的であったようです。

 

 

    アメリカ人でも撰ばれそうになった人間がいると、書いてありました。

    「ただし、彼は堅く辞退して断った」 とか。

 

 

山崎 よかったね(笑)。

 

 

丸谷 集団の内部については   なにしろ犯罪者の集団でありますから、

    「猛々しい民主主義」 というべきものがありますが、頭目はやはり

    超越的な威令をもって君臨した。

 

 

    彼らは地元の動向に敏感であり、またいくつかの集団が同盟関係

    に入り、複合軍が生じることがあった。

 

 

    今世紀最大の複合軍は、白朗の軍で、これが五万人。

 

 

    その集団は疑似家族ではあるけれども、親子関係ではなく、兄弟関

    係、同士的横の関係で秩序が保たれていた。

 

 

    これは、大事なことですね。

 

 

 

     集団が大きくなると親分に次ぐ最高位には軍師が必要となり、

    この軍師が、非常に重要な役目を担った。

 

 

    そして軍師のほかに書記が必要であった。

 

 

    なぜ必要かというと、誘拐した人質の身代金を請求する手紙を出し

    たり、向こうから来た条件を読むためになんですね。

 

 

    これは文盲が多かったからなんですね。

 

    書記は、頭目の助言者を兼ねる教養人であった。

 

 

    ただし、この教養人はとにかく戦闘の胆力がなくて、すぐに逃げ出す

    傾向があって、これが問題であった。  おもしろいですね、ここは。

 

 

    僕なんかが書記をやったら、必ずそうなる(笑)。

 

 

    そのほかに財政係、兵站責任者、歩哨、スパイ、床屋、料理人・・・

    と いろいろいましたが、武器はみんな頭目の所有であって、

    武器と同じようにアヘンというものも頭目の管理だったらしい。

 

 

     食事は、なまのキビとか、コーリャンの団子とか、蒸かしたイモとか

    だった。

 

 

    それで、南に下るとコメも食べたが、冷飯にカビが生えているものを

    食べさせられるなんてことが、しょっちゅうだったと書いてあるんで

    す。

 

 

    ご存じのように、日本人と違って中国人は冷飯が大嫌いなんです

    ね。

 

 

    まして、カビの生えている冷飯なんていうのは、彼らにとっては本当

    に大変な辛い体験だろうと思うんですが、そういうものがわりに多か

    ったらしい。

 

 

    だから、食事の条件は非常に粗悪であったらしくて、賊にとっての

    パラダイスというものは、村に行って飯を炊かせて腹いっぱい食べ

    る、それから、アヘンをご馳走になるということだったようですね。

 

 

     食べることのほかは、お喋りが娯楽であった。

 

 

    人質の身代金について、いろいろ喋る。

    「あの人質は、いくらぐらい取れるだろうか」 とかね。

 

 

    それから、銃器の話、馬の話が好きだった。

 

 

    文盲が多いから本は読めませんが、誰かが 『三国志』 なんかを

    暗誦していて、それにみんなが聞き惚れる。

 

 

    『論語』 を暗誦している人もいるんですね。

 

    それから詩、李白とか杜甫の詩でしょうね、それを暗誦させてみん

    なが楽しむという、非常に高級な世界でもあったんですね。(笑)

 

    (略)

 

丸谷 射撃の練習も娯楽でした。

 

 

    それから服装。きれいな服装を人質から取り上げて着るんですね。

 

    西洋人の女の人の帽子なんかを取り上げてかぶる、これなどは

    こたえられなかったらしい。

 

 

    最後に女性関係の話ですが、これがこの本には非常に少ないんで

    すね。

 

 

山崎 これは不思議ですね。 「子女玉帛」 といって、昔の盗賊は大いに

    女をさらったようですからね。

 

 

丸谷 匪賊たちは、そういう方面の欲望の処理をどうしていたのかというこ

    とが、ほとんど書かれていないんです。

 

 

    もちろん、強姦とか、お妾ということはあったと書いてはありますが、

    どうもその辺のところの探索が行き届いてない気はしますね。

 

 

    中国の匪賊の伝統として、女色にふけることを嫌うという伝統がある

    んでしょうか。

 

 

    『水滸伝』 にも、あまりそのことは書かれていませんね。

    そういうものの名残りなのかもしれません。

 

 

     ただし高島さんの 『中国の大盗賊』 によりますと、古典的な匪賊

    のほうはかならず女を連れていた。

 

 

    三万人の大集団なら戦闘要員は三千人は女と子供。

 

 

    幹部は三人も五人もの女、戦士は一人の女を連れてゆくんだ なん

    て書いてあります。

 

 

               都市とコーリャン畑

 

 

山崎 私は幼少時代、満州で育ったわけです。

 

 

    同じ劇作家の別役実さんも満州育ちなんですが、われわれに共通

    している特色として、町とか都会というものにたいして、無条件に

    好意をもっているということがあるんです。

 

    (略)

 

    別役さんと私がどうしてこんなに都会が好きなんだろうと思ったら、

    それは満州で育ったという事情があった。

 

 

    つまり、満州では、都会の外に出るということは危険があるというこ

    と、要するに匪賊がいたるところに出るということなんです。

 

 

    親は子どもに 「町の外に出るな」 と言い続けている。

 

 

     日本人小学校では遠足で郊外に行きますが、それも一定の限ら

    れた場所にしか行けない。

 

 

    私の父親などは自然科学者だったんですが、調査で白頭山(長白

    山)まで行こうというと、日本の守備隊が一個小隊ついてくるという

    状態だったんです。

 

 

丸谷 そういうものだったんですか。

 

 

山崎 ええ。それも満州国の年号康徳十年とか十一年(1943,1944年)

    で、外見的には、満州は完全に日本の支配下にあるんですよ。

 

 

    でも、そういうものだったんです。

 

      

                                                                                       

 

 

2018年5月6日に 「日本の周囲は匪賊だらけ」 と題して黄文雄の文章を紹介しました。  コチラです。 ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12371106361.html

 

 

 

2017年1月20日に 「シナの皇帝は皆泥棒出身」 と題して丸谷才一が高島俊男の本を紹介した文章を載せました。  コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12239223076.html

 

 

 

 

                奈良公園の浮御堂 8月10日 撮影