「 せがれの凋落(ちょうらく) お言葉ですが・・・㊂ 」
高島俊男 (たかしま・としお 1937~2021)
株式会社文藝春秋 1999年1月発行・より
「墓誌銘」 とか 「墓碑銘」 とかの語は、本や雑誌で見かけるところである。
ところがその使いかたが、概してどうもアヤフヤだ。
墓誌銘も墓碑銘も同じことで、死者の経歴や人柄をしるした短い文章のことをそう言うのだと思っているようである。
しかし本来、墓誌と墓碑とはちがう。
土中に埋めるのが墓誌で、墓のそばに建てるのが墓碑である。
そしてどちらにせよ、「銘」 がついてなければ 「墓誌銘」 「墓碑銘」 とは言えない。
もとはもちろん昔の支那の習慣で、それが日本につたわったのである。
人が死ぬと遺骸を埋葬する。
遺骸だけではどこの誰だかわからないから、どういう人であるかを石に刻(こく)して棺といっしょに埋める。
これが墓誌である。
地面に立てたらいいじゃないか、とお思いかもしれぬが、それは長いあいだに動いたりなくなったりするから、いっしょにうめるほうが たしかなのである。
死者とともにあることがだいじなのだ。
(略)
永井荷風は著名人の墓をたずねるのが好きだった。
展墓(てんぼ)(墓参りをすること。墓参)という。
永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年) - 1959年(昭和34年)は、日本の小説家。 ~wikipedia
『断腸亭日乗』 には展墓の記事がよくある。
ところが荷風はいつも、「牛込袋町光照寺に鈴木白藤父子の墓を展し”墓誌銘”を写す」 というふうに書いている。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 鈴木白藤の用語解説 - 1767-1851 江戸時代後期の儒者。明和4年生まれ。鈴木桃野(とうや)の父。
これは無論、「墓碑銘」 でなければならない。
地上に立っているのを写すのだから。
荷風ばかりじゃない。
森鷗外も 『渋江抽斎』 に、「(抽斎の)墓は谷中斎場の向ひの横町を西へ入って、北側の感應寺にある。
そこへ往けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである」
というふうに、すべて墓誌銘と書いている。
森 鷗外(もり おうがい、文久2年〈1862年〉 - 1922年〈大正11
わが国でも学者は、「いいですか、墓誌銘と墓碑銘とはちがいますよ、
墓誌銘は埋めてあるやつで、地面に立っているのは墓碑銘ですよ」
と口すっぱく言うのだが、一般の人はどうしてもゴッチャにするのである。
この点では、はなはだ申しにくいが、鷗外先生も荷風散人も 「一般の人」 なのである。
いや実は、江戸時代のなかばごろ すでに原双桂という人が
「ちかごろはゴッチャにする人があるんだよねぇ、困ったことです」
となげいている。
原 双桂(はら そうけい、享保3年(1718年) - 明和4年(1767年)は、江戸時代中期の儒学者、医者。 ~wikipedia
由緒古きゴッチャなのだ。
5月29日の興福寺