開発援助の井戸掘りは大変だ     | 人差し指のブログ

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「 地球を舞台に    ボーダーレス時代をよむ    」

編者 梅棹忠夫(うめさお・ただお 1920~2010)

日本放送出版協会 1994年6月発行・より

 

 

      ~ 開発援助の論理回路 佐藤寛(さとう・ひろし 1957~) ~

 

 

 

 

 

佐藤 ただ問題は、援助の対象になる部族民がひじょうに自立性・排他性

    がつよいことなんです。

 

 

    もう10年以上も前の話ですが、中国大使が山奥を車で走っていた

    ら、部族民に襲われて、身ぐるみはがされてしまった。

 

 

    政府の許可書をもっているとみせたら、政府というのは、どこの部族

    かと聞かされたいう話があったとか(笑)。

 

 

    政府の意向がすみずみまでとどいていなかった。

 

 

梅棹 そういうところに調査員として、おはいりに なったわけですか。

 

 

佐藤 そうです。 イエメンにはいってびっくりしたんですが、通常援助する

    側の一員として、その国の公務員といっしょにある地域にはいれ

    ば、これは政府からのさしまわしで、えらい人にちがいないとおもわ

    れるはずですね。

 

 

    ところがイエメンの場合は、そういう前提がいっさいない。

 

 

    村の人間にとっては、政府の人間であってもよそ者、よその部族の

    人間にかわりはないんです。

 

 

     そういうよそ者を排除するするという素地があるところでは、

    援助にきたということ自体が善ではない。

 

 

    援助とはなんなのかということをその村の人たちにわかってもらうま

    でに、そうとうの労力がいるんです。

 

 

梅棹 政府がそういう場所を指定するわけですか。

 

 

 

佐藤 そうです。道路をつくるとか、水をひくということで、政府は力をしめ

    したい。

 

 

    あるいは有力な部族があって、自分たちのところに井戸をひけと

    陳情にくるんです。

 

    そうすると ことわれない。

 

 

    政府は自前ではできないので、たまたま外国からやってあげましょう

    という話があると、そこへいってくださいと場所を指定するわけです。

 

 

     援助する外国が経済開発の効率という点からみると、ほかにも援

    助すべき場所があるんですけれど政府のほうではとくに井戸とか、

    道路の場合、政治的な判断で指定する。

 

 

    そういう場所は、政府の力があまりおよんでいないところですから、

    いかされたほうはえらい迷惑なわけです(笑)。

 

 

梅棹 それは、たいへんだ。     結果はどうなるかわかったものではない。

 

 

佐藤 よくあったのが、井戸掘りにいって、契約では何本か掘ってダメだっ

    たら、つぎへいっていいということになっていますから、つぎへいこう

    とする。

 

 

    ところがそんなことをしたら、その村の人たちに鉄砲をもってかこま

    れて、水がでるまで掘れといわれたとか。

 

 

     あるいはどこかで井戸を掘っていると、やっぱりかこまれた。

 

 

    なんでだろうなというと、その隣の村の人たちがやってきて、

    ここを掘るのはやめて、うちに掘れと。

 

 

    それは、ひとつには嫉妬ということもあるかもしれませんが、

    水がでてしまうと、政治的に自分たちの村と水が出た村との力関係

    が変化してしまうんですね。

 

 

    ですからそこに掘られてもこまる。   だから掘るな。

 

 

    そういうふうに地方へいくと、よそ者がやってくることに対するものす

    ごい警戒心というのがあって・・・・。

 

 

梅棹 よそ者が勝手なことをするなという基本的認識があるんですね。

 

                  ~ 『月刊みんぱく』 1991年10月号 ~

 

 

 

 

 

コンパクトデジカメでも写せる距離にカワセミがいました。

1月6日 奈良公園の浮見堂にて撮影

写っているベンチで菓子を食べていましたら、鹿達が 「オレにもよこせ」

と来襲して来たので食べ物を取られては大変と撤収した時の写真です。

奈良公園では よくある事です。