「 我等なぜキリスト教徒となりし乎(か) 」
安岡章太郎 (やすおか・しょうたろう) / 井上洋治 (いのうえ・ようじ)
株式会社光文社 1999年1月発行・より
[ 安岡章太郎 ] 遠藤が亡くなったのは平成八年九月二日
でした。
もう二年が過ぎたとは思えないほど早いし、いつも僕のすぐ近くにいるような気さえします。
こんなことを言うと早速文句の一つも返してくるようだが、じつは遠藤の場合はそうでない。
逆に、遠藤の作品というものは彼が生きている時は欠点ばかり目について仕方なかった。
ところが、死んでからは、どうしてなのか欠点が目につかなくなったのです。
最初の若書きの頃から較べると文章もすっかりよくなっているし、『縁の糸』 を読んでいて、「いや、こいつはうまくなったな、すっかり」 と思ったくらいです。
しかし、それで読み進めていると、急に変な言葉遣いが出てくる。
パリのセーヌ川を描写したところに、「一人で、僕は橋の上から、あがりおりをする船を見てるのが大好きだ」 と書いてある。
あがりおり って何だ。
普通は上り下り、のぼりくだりです。
それを彼は 「あがりおり」 とひらがなで書いていたんです。
あー、まだこんなことやっているのかお前は、と思いました。
遠藤の文章には以前からこの手のアラが時々出てきます。
「つっつけどん」 と何度も言うから何のことかと思うと、
つっけんどん、のことでした。
最初の頃は僕は、彼が満州の大連育ちだから、平気で 「つっつけどん」 なんて言うのかと思ったが、そうじゃない。
満州育ちの作家はいろいろいるわけですが、言い間違いがじつに多いのも遠藤作品です。
想うに、やはりこれは遠藤が幼い時に母親と話す機会というか、唱歌を母親と一緒に歌って過ごしたりすることが少なく、言語がどこか未成熟のままになっているのではないか。
そういえば、「春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が」 というのは大抵、母親から聞いて覚える歌ではないか。
僕はそうおもいます。
ところが遠藤は 『母なるもの』 の中で、こんなふうに書いています。
小学生時代の母のイメージ。それは私の心には夫から棄てられた女
としての母である。大連の薄暗い夕暮れの部屋では彼女はソファに
腰をおろしたまま石像のように動かない。そうやって懸命に苦しみに
耐えているのが子供の私にはたまらなかった。横で宿題をやるふりを
しながら、私は体全体の神経を母に集中していた。むつかしい事情が
わからぬだけに、うつむいたまま、額を手で支えて苦しんでいる彼女
の姿がかえってこちらに反射して、私はどうして良いのか辛かった。
秋から冬にかけてそんな暗い毎日が続く、私はただ、あの母の姿を
夕暮の部屋のなかに見たくないばかりにできるだけ学校の帰り道、
ぐずぐずと歩いた。ロシヤパンを売る白系ロシアの老人のあとをどこ
までもついていった。日がかげるころ、やっと、道ばたの小石を蹴り蹴
り、家の方角をとった。
佐藤泰正(さとうやすまさ)氏との対談集 『人生の同伴者』 の中では、遠藤はじつに正直に母親について語っています。
遠藤の内心を覗かせるというか、聞かせてくれるという意味で素直な本になっています。
遠藤文学の一番根っこにあるものをじつに簡明素直に明かしていると思う。
父母の離婚後、兄は父が連れていき、遠藤は母と残る。
そのつらさを遠藤少年はじっと耐えていたのですが、やがて父親が遠藤を籠絡しようとして、動物園に連れていったり、飯をくわせたりします。
父と兄と彼の三人。
そうなると今度は彼は母親に対して、これは母を裏切っているのだと苦しむ。
「自分と兄貴だけ連れて行かれて母親は取り残される。その状態というのは、十歳の子どもにとっては裏切ったという感じですね」 「だから、聖書のなかで弟子たちがイエスを裏切ってしまう。あのうしろめたさは、いつも自分の心にあったんです。かくれ切支丹ものを書いても、裏切りと母親との関係というものをとおして切支丹をみているんです」
そう彼は語っています。
こういうことから、遠藤は母親から、誰でも知っている 「春のうららの隅田川」 も教えられることがなかった。
そう思うとぼくは遠藤の 「あがりおりするセーヌ川」 というヘンな文句がグサリと刺さって悲しみを覚えさえするのです。
奈良公園の藤の花 4月28日撮影