歌舞伎が「発展」した理由 | 人差し指のブログ

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「日本人の美意識」

ドナルド・キーン(1922~2019)/ 訳者 金関寿夫(かなせき ひさお)

中央公論社 1999年4月発行・より

 

 

 

 歌舞伎の初期、すなわち阿国時代から17世紀中葉までの歴史には、後にこの芸術が達成する壮麗さを示唆するようなものはなにもない。

 

 

阿国自身は、かなり上品に演じたし、芸人として宮中にも招ばれたほどであった。

 

 

ところが彼女の後継者たちは、歌舞伎を、一種の歌うコマーシャルにまで下落させてしまうが、言うまでもなく、その商品は、彼女ら自身の身体だったのである。

 

 

そこで寛永6年(1629)、幕府がついに介入して、女舞、歌舞伎一切に、女性の出演を禁止した。

 

しかし幕府にそれをさせたのは、格別彼らのお上品趣味からではなかった。

 

 

儒者が歌舞伎を承認しなかったこと、これは言うまでもない。

 

しかし歌舞伎は彼らにとって、軽蔑にも価しない存在であって、それを改良しようなどということは、彼らの夢想さえしなかったことだったのだ。

 

 

彼らにとって、演劇などというものは、淫売宿と大差はなかった。

 

 

事実歌舞伎は、徳川時代を通じて、遊郭と密接に関係があった。

 

そして役者は、その社会的地位においても、どちらかと言えば、女郎よりもまだ下だったのである。   

 

 

けれども儒学者は、こうした社会の恥ずべき付属物も、それぞれその用を果たしていることを、認めていたのだ。

 

 

 幕府は、遊郭の設置を認可し、それに伴って各種演劇も承認した。

 

 

しかしもし幕府が、そのような儒教精神にもとる娯楽に、一応目をつむったとしても、それはなにも、社会に無秩序を奨励したわけではなかった。

 

 

ところが、京都における女歌舞伎禁止(1629年)の直接の原因は、ある芝居小屋での大喧嘩という事件が起こり、沢山の怪我人や、人死さえ出たことであった。

 

女性が舞台に出られないとなると、それに代わって出て来たのが若衆という、美少年だったのである。

 

 

慶安4年(1651)、若衆歌舞伎の御前上演が、将軍家光のために行われている。

当時若衆歌舞伎がいかに人気があったかが、これで分かろうというものである。

 

 

ところがその翌年、若衆歌舞伎もまた、禁止の憂目にあう。

 

理由は明らかに、美少年役者をめぐっての、侍同士の、文字通りの鞘当てから起こる大喧嘩であった。

 

1656年枡席(ますせき)での役者と客との口論がもとで、その後十三年間、京都のあらゆる芝居小屋が閉鎖されるという事態が起こった。

 

 

 

そこで面白いのは、芝居小屋での秩序を維持したいというこうした幕府の関心が、歌舞伎に、ある重要な芸術的影響をもたらしたことである。

 

 

 

1653年以後、歌舞伎芝居における役は、すべて大人の男性、しかもわざと肉体的魅力を殺すために、前髪をそった役者によって、演じられることになったのだ。

 

ところが皮肉にも、この事態の、多かれ少なかれ偶発的な発展は、芸術としての歌舞伎が形作られる上で、最も重要な要素となってしまったのである。

 

なぜなら、舞台上に、性的魅力のある女優や、美少年をのせることが出来ないとなれば、観衆を惹きつけるためには、歌舞伎はもはやいかがわしい見世物であることをやめて、一つの’演劇’へと成長させざるを得なかったからだ。

 

舞台から女を追放した結果 生まれたいわゆる女形(おんながた)は、他の何者にも増して、歌舞伎における、写実と非写実との、あの特徴的な調和に貢献したのである。

 

 

 起こりうる騒擾の予防のためにも、幕府は、徳川時代を通じてずっと、演劇への検閲を行ってきた。

 

いかにかすかであっても、政治的な含意が匂うような事件を、舞台にのせることは、ローマの風刺詩人ユウェナーリスのひそみにならって、時代をずっと昔にさかのぼらせて、いわば毒抜きをしてしまわない限り、許されなかったのである。

 

 

しかし純粋に情緒的な事件ならば、舞台にのせても、当局はなにも文句は言わなかったのである。

 

例えば、つい近くに実際起こった心中事件など、起こる度に芝居にされ、繰り返し上演されるので、むしろ芝居のほうが、心中熱を誘発しないかと危ぶまれるぐらいで、そういう時には、幕府が介入して来た。

 

 

このようにして歌舞伎は、一つには阿国歌舞伎の念仏踊りの遺産として、また一つには、情緒的なもの以外を不可とするテーマ制限のために、強度にエロチックな味わいを持つ演劇として発展した。

 

 

そして老年になってからでも、若い女の持つ魅力的な美しさを実現出来る役者の才能が、多くの芝居を成功に導く原因となって来た。

 

 

したがって当然のことながら、衣装やメークアップの技術は、もっと写実的なスタイルの演劇には、想像もつかないくらい高度な発達を見せたのである。

 

 

今日歌舞伎を一番歌舞伎らしく見せているものは、多分に女形を、その役柄に応じて、より本当らしく   さらに写実的に見せるための努力の結果だと言える。

 

 

 

 

 

 

奈良の国立博物館の前に咲いていた少し桃色の濃い背の低い桜です。

                                    4月1日撮影