「 日本人だけが知らない 世界から絶賛される日本人 」
黄文雄 (こう・ぶんゆう 1938~)
株式会社 徳間書店 2014年7月発行・より
2011年は辛亥(しんがい)革命、12年は中華民国100年の節目として中華民国政府も人民共和国政府も、大々的に 「建国の父」 「革命の父」
として孫文を取り上げ、テレビや映画などで宣伝に邁進(まいしん)した。
しかし、中華民国と孫文とはいったいどういう関係なのか。
日本の中国専門家でさえ国民党のプロパガンダにふりまわされているだけで、史料の咀嚼(そしゃく)もなければ、独自の検証もほとんどできていない。
孫文は革命を志してから、彼がかかわった革命で成功したものは一つもなかった。
死ぬまで 「革命功ならず」 と悔いていた。
中華民国史を見るかぎり彼こそ民国の乱の元凶であり、広東軍政府をつくった際には、酷税の取り立てで史上最悪の施政を敷き、しかも広州大虐殺まで行っている。
しかも、一生はほとんど金をめぐるトラブルに終始して、革命の同志ともほとんどケンカ別ればかりだ。
章炳麟(しょうへいりん)、黄興(こうこう)、宋教仁(そうきょうじん)など革命の主役とも仲が悪く、ことに辛亥革命に参加した北一輝からも軽蔑された。
口先だけの革命浪人だったのだ。
毛沢東さえ孫の講演を聞いて、「水多油少(シュイトウヨウシャオ)」 と言った。
つまり 「ホラ吹き」 呼ばわりしているのだ。
(略)
国民党によると、孫文の革命資金源は華僑だったとされているが、実際には日本人の支援者からのもののほうが多かった。
しかも純真な正義心、義侠心に燃える明治の日本人は金銭面だけでなく、生活を顧みず、身命(しんみょう)をも賭しての支援を行った。
その最大の支援者の一人が梅屋庄吉(うめやしょうきち)だった。
現在、日本人の革命支援者として中国で認められているのは、梅屋ぐらいのものだろう。
(略)
日本亡命中、孫文は 「宋家三姉妹」 の次女、宗慶齢(そうけいれい)と結婚している。
孫文はすでに妻帯していたが、妻とは離婚した上での結婚であった。
目的はその父親で、革命資金の提供者、宋嘉樹(そうかじゅ)の金だ。
この結婚をお膳立てしたのは梅屋だった。
中国人同志はこのような結婚に反対したため、結婚式に出席したのは日本人支援者ばかりだった。
(略)
当時は孫文の盟友である、黄興も日本に亡命していた。
彼には三井物産門司支店長が一万円の生活費を提供している。
官吏の月給が10円ないし20円の時代であるから、これは破格の待遇だ。
このように中国の革命家たちにとって、日本は亡命天国だったのだ。
孫文などの生活も贅沢三昧(ざんまい)で、義兄の孔祥熙(こうしょうき)から、
「帝王のように腐敗したものだった」
と評されたほどだ。
とにかく梅屋を始め日本人支援者たちは、支那革命の大義を信じ、懸命に革命家たちを助けたわけである。
春日大社の参道(奈良市) 昨年12月24日撮影