「話した後」は憂鬱に・徳川夢声 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

~(人差し指) 座談の名人といわれた人がこのようなことを言っているのは面白いと思ったので紹介します~

 

 

 

「 話術 」

徳川夢声 (とくがわ・むせい 1894~1971)

株式会社 新潮社 平成30年4月発行・より

 

 

 座談でも、あんまり喋り過ぎた後は、憂鬱(ゆううつ)になることがある。

 

言わでものことを言ったと思うときはなおさらそうだ。

 

 

 これが聴衆を前にして一席喋った後はまた一段と憂鬱の度が強い。

 

 

講演でも、漫談でも(放送でも)あとで好い心もちだなんてことはめったにないものだ。

 

 

 喋ってる間は、自分の失敗に気がつく、その失敗を取り返しのつかぬまま、次の件(くだり)に移る。

また失敗がある。

 

 

そんなふうにして心の底にイヤな味がだんだん沈殿(ちんでん)して重くなる。

その重さが憂鬱の主たる原因だろう。

 

 

 

 これは、私だけの神経衰弱的、被害妄想的なる傾向かしらと思っていたら、大多数の芸談家は皆そうであるらしい。

 

 

自分のお喋りに、あとで満足しきっているなんて人は、素人はいざしらず、本職にはほとんどない。

 

 

本職でそんなオメデタイ人があるとすると、まず、その人の芸はなっていないと言ってもよろしい。

 

 

 

 近世、話術の名人といわれた、故伊藤痴遊氏なども、やはり憂鬱党であった。

 

帰宅してからまで、その日の出来について、アレコレと思い悩んでいたそうだ。

 

 痴遊氏は、見るからに豪放な人物で、大臣だろうが、暴力団だろうが、

鼻であしらうような印象を与えられるが、こと話術に関しては はなはだ神経質であった。

 

 

          どうも、あすこの言い廻しはまずかった。

 

あすこの意気はマが外れていた。あの部分はもっと力強く言うべきだった。

というふうに、寝床についてからまで、工夫をこらしていたという。

 

 

 氏の如(ごと)く、五十年も演壇や、舞台や、高座に立って、お喋りを業としていても、やはり そのような悩みがあったのである。

 

つまり話術も一生の修業であるからだ。

 

 

 

 

朝霞(埼玉)の文化会館みたいな所の菊の展示会です。11月3日撮影