「 お言葉ですが・・・❼ 漢字語源の筋ちがい 」
高島俊男 (たかしま・としお 1937~)
株式会社 文藝春秋 2006年6月発行より
江戸時代に、中国の新刊書が長崎経由でどんどんはいってくるようになり、それを日本の知識人が読んでみると、これまで見たこともない字やことばがつぎつぎに出てくる。
日本人はそれを、難解で高級な語のように思った。
しかし実はそれらの多くは、ごくありふれた口頭語だったのである。
日常の口頭語だから、従来日本人が読んできた古典籍や詩文集には出てこなかった、というだけのことなのだ。
それが明治にも尾を引いて、 「輸」 だの 「贏」 だのいうのを何かえらく権威のある用語のように思い、刑法典に 「偶然ノ輸贏ニ関シ」 ともちいたのだろう。
「偶然の勝ち負け」 で十分なのである。
いまでも、江戸の文学におよぼした支那小説の影響を研究している国文学者の書いたものを読むと、なんでもない日常語を大げさにひねくりまわしてあって失笑することがある。
むかし日本の学者がドイツへ行ったら、子どもが路上で哲学用語をしゃべって遊んでいるのでおどろき、尊敬の念を深くした、というのと似てますね。
子どもでも知っていることばが哲学者にも出てくる、というだけのことなのだ。
(略)
中国でプロレタリア文化大革命がはじまったころ、エドガー・スノーという
アメリカのジャーナリストが毛沢東に単独会見してその記録を世界に報告した。
この人は中国共産党が延安に逼塞していたころからの中共びいきで、毛沢東にも何度も会っていて親しく、無論中国語もわかる。
西側における中共の広告塔みたいな人であった。
そういう人であるから毛沢東も気さくに話をした。
その発言のなかに 「まあおれなんぞは坊主が傘をさすだからね」 というところがあった。
この 「坊主が傘をさす」(和尚打傘)が歌後語で、「ムチャクチャやりほうだい」 の意である。
坊主が傘をさしているのだから 「無髪無天」。坊主は頭を剃っているから 「無髪」、傘をさして空がかくれたから 「無天」 である。
「髪(フア)」 と 「法(フア)」 とほぼ同音だから 「無法無天」、法もなければ天もない、つまり、法律も無視すりゃ天理(道徳)も無視する、ムチャクチャやりほうだい、ということになる。
ところがエドガー・スノーは、この歌後語を知らなかった。
「和尚打傘」 をことばどうりに うけとって文学的に潤色し、「私は傘を手に歩む孤独な行脚僧だ」 と英語に訳して発表した。
世界の人々は、「ああ、毛沢東と言えば新中国の帝王のような人だが、その心のなかをのぞけば、無人の枯野を一人とぼとぼ歩む行脚僧のように孤独なのだ」 と理解した。
これが晩年の毛沢東のイメージとして定着した。
われわれ中国教師は 「ちがうちがう」 と言ってまわったのだが、焼け石に水であった。
毛沢東が死んだ時、どこかの新聞の一面コラムが、この 「孤独な行脚僧」 をそのまま踏襲していました。
*[ あとからひとこと]
(略)
小生に記憶ちがいや誤認があったことがわかった。
毛沢東のこの発言があったのは、1970年12月18日、エドガー・スノーとの会見の折である。
(略)
この70年12月の会見は唐聞生(ナンシー・タン)が通訳をつとめた。
スノーが直接(中国語で)毛沢東と語ったとわたしが思っていたのはまちがいだった。
(略)
この会見記の第三回(朝日新聞71・4・27)のおしまいのほうにこうある。
< 主席は丁重に私を送り出しながら、自分は複雑な人間ではなく、
実はとても単純な人間なのだと語った。いわば、破れガサを片手
に歩む孤独な修道僧にすぎないのだと・・・・ >
これが実際には 「なにオレはごく単純な人間なんだよ。和尚打傘、無法無天、やりたいほうだい好き勝手をやってきた男さ」 ということであったのだ。
しかしこの誤訳によって 「破れ傘を手に歩む孤独な修道僧 」 のイメージは世界にひろがった。
五年後、1976年9月に毛沢東が死んだ時、朝日新聞の 「天声人語」
(76・9・11)は左のごとく書いて 「不世出の革命家」 を追慕している。
< (毛主席は)肉体労働を重んずる行動主義者であると同時に、詩人
であり、「愚公山を移す」 という農民的なしぶとさをもつ革命家で
あると同時に、孤高の思索家でもあったらしい。晩年の主席がスノ
ー氏に 「自分は破れがさを片手に歩む孤独な修道僧にすぎな
い」 ともらした言葉は、この不世出の革命家の内面を知る上で実
に印象的だ。 >
朝日の 「中国ありがたや教」 信者ぶりが遺憾なく発揮された醜文だね。
この時期 天声人語を書いていたのはタツノ何とかという男らしい。
辰濃和男(1930~2017)朝日新聞の天声人語を1975年から1988年まで担当。ウキペディアより・(人差し指)
奈良の猿沢池、興福寺の五重の塔が左端に見えます。
昨年「12月24日撮影