「 ぶ仕合わせな目にあった話 」
吉田直哉 (よしだ なおや 1931~2008)
筑摩書房 2004年8月発行・より
静六さんは、宮沢賢治の弟さん。
だんだんわかったのだが、次の年1983年が宮沢賢治の没後50周年にあたるので、テレビで記念番組をつくりたい、という私の申し出を受けてよろこんだ。
そして待っていたら、二百十日に風に押されるように打ち合わせにきたから、じつに嬉しかったというのである。
しかも、その27年も前の1955年にラジオの 『面影をしのぶ』 という番組で私が取材に伺って、ご両親のお話を収録したことを おぼえていてくださったのだ。
賢治について話す両親の肉声が世に出たのは、ほかに記憶がないと、その放送の思い出談になった。
生前はほとんど世に知られなかった賢治だが、1955年のそのころには、もちろん日本中がその名と偉大さを知っていた。
ところが父君の政治郎さんだけは、息子の仕事を全く否定しつづけたのである。
作品の評価の問題ではなく、創作行為そのものをみとめないのだ。
「賢しゅのしたことなどは、岩にぶつかって、ただはね返されているようなことばかりですじゃ」
厳然たる、名門旧家の家父長なのであった。
賢治を愛していないのではない。
「賢しゅ」 と亡き子を呼ぶ口調で、いつくしんでいるのはわかるのだが、
見えない火花がまだ散っているのである。
母堂イチさんはその反対に、亡き子が哀れで仕方ない。
言葉だけにしろ、原稿の山を指して父親に 「みんな私の迷いの跡だんすじゃ。どうなったって構わないんすじゃ」 と、死の直前にいわなければならなかった息子が哀れでならない。
「そんたな!そんたな無情(むご)いこと・・・・賢サは私には、いつかはきっと、みんなでよろこんで読むようになるんすと胸はって言いましたす」
とイチさんは抗議したのだが、まるで子守唄のメロディーの、この上なく美しい花巻弁なので、ちっとも抗議にきこえないのだった。
10月10日 朝霞市内(埼玉)にて撮影