「大人の読書 一生に一度は読みたいとっておきの本」
谷沢永一(たにざわ・えいいち) / 渡部昇一(わたなべ・しょういち)
PHP研究所 2009年3月発行・より
[谷沢永一] 万葉集については、戦後だけでも全注釈が何回出たこと
か。
これはもう大変なことです。
ちなみに、万葉集を何とか読めるようにしようと言い出したのが
元暦(げんりゃく)年間、つまり平安末期から鎌倉にかけてのこと。
そして、江戸時代中期の契沖(けいちゅう)が行った注釈から、
本当の意味での万葉集の注釈学が始まります。
それまではどう読んでいたかわからない。
契沖による万葉集の注釈を超えた人は、その後出ていないと言ってもいいでしょう。
それに対して、古今集というのは、よほどそれが成立した時代のことを知らなければ、そのおもしろさがわからない。
いまだに古今集の注釈はダメです。
ほとんど読めていません。
それは万葉第一主義で読むから、 それではぜんぜん意味がなくなってしまうわけです。
つまり、万葉集は素朴の素人がスッと実感で受け取れるけれども、古今集を読むためには、濁点を用いない仮名文字のみの連綿表記に籠(こ)められた工夫、特に第三句の活かし方について勉強しなければならない。
万葉集というのは日本民族の一番根っこにある感性だけれども、それが古今集になると上流階級の非常に教養の高い、昔の歌を全部覚えているような人たちの間でないとおもしろくない。
これははっきりと言っておきますが、古今集はいまだに読めていない。
たとえば、
「奥山にもみぢふみわけなく鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」
を、いま出ている注釈書はまったく読めていません。
「もみぢふみわけ」 るのは歌人なのか鹿なのか、ということで何百年も揉めてきたわけです。
これは二つの歌を合体させたと考えればいい。
「もみぢふみわけ」 て 「異性を求めてないている鹿の声」 と、
「その鹿の声を聞きながらまた人生の秋を考える人」 というように、
この二つの意味を合わせて両方を同時に感じとれるように作ってある。
この一つの歌をとってもかくの如し。
古今集についてこのような読みを完全にできている注釈書はないのです。
筑波大学の名誉教授である小松英雄さん(『やまとうた』 『みそひと文字の叙情詩』) が初めてこのような解釈をしていますが、古今学者は全員黙殺。
つまり、小松さんの意見を容れてしまえば、いま出ている古今集の注釈書は用を成さなくなってしまう。
さらに、新古今集になると、これは 「本歌どり」 の上にさらに技巧が加わっています。
これを解明したのは丸谷才一の 『後鳥羽院』 です。
だから、古今の解釈は小松英雄に始まり、新古今の解釈については 「丸谷」 以前と 「丸谷」 以後で変わるんです。
俳句についていえば2016年9月21日に 「俳句の解釈と別解」丸谷才一」として丸谷の説を紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12191996414.html
朝霞市内(埼玉)にて 10月10日撮影