島尾敏雄の芸術院賞受賞・阿川弘之 | 人差し指のブログ

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「 国を思うて何が悪い   一自由主義者の憤慨録   新装版 」

阿川弘之 (あがわ ひろゆき 1920~2015)

株式会社光文社 2008年4月発行・より

 

 

 

 自分のことですか? 私は今から七、八年前に、芸術院恩賜賞というのを、陛下のいらした授賞式で謹んでお受け致しました。

 

 

私の友人たちも、謹んでかどうかは分からないけど、遠藤、吉行(よしゆき)、安岡、庄野、一と通り皆貰ってます。

 

いつの間にか我々そんな年恰好になってしまったんでしょうね。

 

 

ただ、島尾敏雄(しまおとしお)の場合、私はちょっと疑問を感じた。

 

 

 ある時の例会で、庄野潤三と安岡章太郎が、今度島尾敏雄を入れたいと思うんだけど・・・・と耳打ちに来た。

 

 「そりゃ島尾は古い友人だし、考慮してもいいけど、もし事の成り行きで、ただの芸術院賞ではなく恩賜賞ということにでもなったら、却って本人が困りゃしないか」 と、その時まず、私は疑問を呈したんです。

 

 

 恩賜賞というのは、芸術院賞に入ったもののうち得票数の一番多いのが自動的になるだけのことなんですが、島尾が 「恩賜」 というその名称にこだわりゃせんかと思ったもんですから、芸術院の内規で、選考の経緯を外部に洩らしてはいけないことになっていますので、そのあと誰がどうして何がどうしたという途中経過は遠慮しますが、結局相当数の票を集めて。恩賜賞にはならなかったけど、島尾敏雄の芸術院賞が決まりました。

 

 

 六月の三日か四日、陛下御臨席のもとに授賞式を行うのが毎年の例です。

 

 

その数日前の五月二十七日は、昔の海軍記念日、前にお話しした文人海軍の会がひらかれた。

 

 

島尾は私の次ぎのクラス、兵科三期の海軍予備学生ですが、従来この会には出て来たことはありませんでした。

 

 

それが、何を思ったのか、その日顔を出してるから、

 

「やあ、おめでとう。六月三日はぼくも出るよ。しかし君は大変だねえ、

モーニングの用意もしなきゃならんだろうし」

 と言ったら、

 

「いやあ」

 と照れたような顔をして笑ってるんです。

 

 

甚だプライベイトなことになりますけど、六月三日の当日、私は前からの約束で九州の柳川(やながわ)へ講演に行くことになってたんですが、

それをキャンセルしました。

 

 

今年は島尾と福田恆存さんの二人が受賞したので、その式には枯木も山の賑わいで是非(ぜひ)出たいから、そう言って先方の柳川にお詫びをして、先約を破ったのです。

 

 

そうして出席してみたら、島尾は来ていない。

奥さんが代理で陛下の前へ出て行くのです。

 

へへえ、そんなもんかと思いましたね。

 

 

河盛好蔵さんがやはり変に思われたらしくて、

 

「島尾君、来てませんねえ。病気ですかねえ」

 と言われるから、私が、

 

「いいえ、そうじゃないでしょう。数日前、海軍記念日の文人海軍の会には元気な顔を見せてたんですから」

 そう言ったら、河盛さん、ふッと黙ってしまわれた。

 

 

そのあと、島尾は芸術院会員にもなりました。

 

 

芸術院の新会員は、東宮御所(とうぐうごしょ)へ上がって皇太子殿下にお話を申し上げる慣例があるんですが、初めての会合の時、第二部長といって文学部門の部長である丹羽文雄(にわふみお)さんが島尾に、

 

「どうや、君も一つ、皇太子さんのところへ行って話してくれんか」

 

 と言った。そしたら、島尾は黙って首を横に振るんです。丹羽さんがかさねて、

「庄野君が一緒ならええやろ。庄野君と二人でどうや」

 

と言う。今度は島尾と庄野と二人で首を振る。

 

これは一体どういうことなんだ。

 

そんなら初めから、芸術院賞なんか貰わなきゃいい。仮に事の成り行きで貰ったのだとしても、せめて芸術院会員の方ぐらい辞退すりゃいい。

 

誰も、島尾の仕事を認めないと言ってるわけじゃないんですからね。

 

 

天皇の前に出てお辞儀するのはいやだ、皇太子に話しをしに行くのもいやだ、しかし賞と年金だけはほしい、結局それが本心じゃないのか

もしそうなら、あまりに図々しいというもんでしょ。

 

 

 思わずその場で島尾と庄野の顔を睨みつけましたが、後日の釈明なぞ別にありませんでした。

 

 

それ以来交渉がなくなって島尾は死んでしまった。

 

 

だけど、島尾敏雄のことは、聖トシオ、セイント島尾というくらいに思っている熱心な読者や批評家がたくさんいるんです。

 

 

六十代で亡くなって、少し早かったとはいえ、その意味では幸福な作家だったんです。

 

 

ただ、私はその手の評論家たちに彼の在り方はあれでよかったのですか、立派な経歴に生涯の終わりの方で自ら泥を塗ったことになりませんかと、一度正面切って訊ねてみたい気がしています。

 

 

 

 

光が丘公園(東京・練馬)にて 3月31日撮影