「大坂冬の陣の大砲」を幕末に使う | 人差し指のブログ

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『 メディアの展開      情報社会学からみた「近代」 』

加藤秀俊(かとう ひでとし 1930~)

中央公論新社 2015年5月発行・より

 

 

 

 十九世紀前半の時代、もっと滑稽で深刻な事例として大和(奈良県)高取藩の大砲がある。

すこし ながくなるが、その話をつづける。

 

 

 高取城があったのは地図でみればわかるように、いまの大和高田市。

吉野への入り口で、金剛山も ちかい。

 

 

楠木正成の千早城もこのあたり。高取城は標高五百メートルの山城で、

紀伊半島北端を東西にむすぶ街道を眼下に見下ろしている。

 

 

たいへんな軍事的要衝のひとつで、戦国期には筒井順慶(つついじゅんけい)が築城し、その戦略的理由から、のちここには徳川譜代の植村家が封ぜられた。

 

 

禄高二万五千石。そしてこの城には大砲六門が常備されていた。

 

 

 この大砲は大坂冬ノ陣にあたって家康がリチャード・コックスから買い入れたもの。

その砲声におどろいて豊臣方が和議に応じたという歴史的大砲である。

 

 

俗にブリキトース砲という。万一、天下動乱のときにはこの城の上から要路を通過しようとする敵軍を射撃して壊滅させるという作戦。

 

 

 しかしながら、この六門の大砲は二世紀以上にわたって使用されることがなかった。

平和がつづいたからである。

 

 

それでも家臣団のなかから六人が砲術方を命ぜられ、山頂、山麓それぞれに三台を配置し土蔵のなかに保管していた。

 

 

砲術は秘伝とされ、その責任者たる砲術方は五十石の家禄をあたえられていた。

その大砲方に突如、命令がくだった。

 

幕末の天誅組の迎撃である。

 

 

天誅組というのは簡単にいえば早トチリの右翼ゲリラ集団のようなもので、大和十津川の郷氏を動員して討幕運動をはじめた。

 

 

その軍団の規模千人。それが高取城を攻撃してきたのである。

 

 

植村藩の鉄砲方は二百年ぶりに大砲をひっぱりだし、弾丸を装填して射撃を開始したが、おどろいたことにその六門のうち五門はまったく点火

することさえできなかった。

 

 

砲身が割れていたり、火薬の調合や発射方法などがアイマイになっていたからである。

 

 

なにしろ長期にわたって 「秘伝」 は代々 「口伝」 であって、大砲の正確な操作方法を知っている者、しかもにわか勉強でどうにか試射できた者はひとりしかいなかった。

 

 

 それでも、この一門の大砲から発射された数発の弾丸は天誅組に命中し、ゲリラは敗退する。

 

 

だが、それは弾丸の爆発によるものではなく、天にとどろく殷々たる砲声が敵をびっくりさせたからであった。

 

 

なにしろ天誅組のほうもその武装たるや戦国時代の古い甲冑などで急ごしらえした時代錯誤の 「軍隊」 だったから、この 「戦闘」 は双方とも、

まことに間の抜けたものだった。

 

 

後日しらべてみたら、撃った弾丸のうち一発だけが天誅組のひとりの壮士のカブトに命中し、強烈な耳鳴りという後遺症をのこしただけで、死傷者はゼロであった。

 

 

 

 

 こんなことにまで筆がすべってしまったのは、ひとえにこの史実にもとづいて書かれた司馬遼太郎さんの短編小説 『おお、大砲』 に感動した記憶が消えないからである。

 

 

ほんとうにこの小説はおもしろかった。

昭和三十六(一九六一)年に書かれたこの作品は司馬さんの代表作のひとつにあげるべき名作だ。

 

 

 じっさい、いまこれを読みかえしてみると、大坂落城の瞬間から十九世紀なかばまでの二百年間、日本の 「軍事」 が完全冷凍状態におかれていたことをこの高取藩の大砲ほど雄弁に物語るものはあるまい、とわたしはおもう。

 

 

なにしろこの六門の大砲は家康を祀った東照権現の神棚のもとに鎮座し、その収蔵庫にはめったに人ははいらない。

 

 

いや砲術家だって、入庫するときにはカミシモをつけ、うやうやしく灯明をささげてから大砲に敬礼するのである。

 

 

なにが 「物神崇拝」 といって高取藩の大砲ほど極端な物神崇拝は他に類例はみない。

 

「天下泰平」 というのはこういうことだったのである。

 

 

 

 

 

4月9日 多摩森林科学園(東京・八王子)にて撮影