「 山本七平全対話 1 日本学入門 山本七平他 」
山本七平(やまもと しちへい 1921~1991)
株式会社 学習研究社 1984年11月発行・より
最近新聞紙学・東と西と 深田祐介 1976.5 「現代」
<深田> 欧米と日本、特にヨーロッパと日本を比較した場合、
新聞、テレビの社会的地位が非常に違うと思うんですね。
それでイギリスで、弱電メーカーの S社の日本人マネージャーからたいへん象徴的な話を聞かせてもらったんですが、S社がヨーロッパでテレビ・セットの販売に成功したのは、テレビのデザインを変えたのが大きな理由だった、というんです。
これだけの話じゃどうってこともないんですけど、デザインを変えた理由がたいへん象徴的なんです。
つまり日本じゃテレビの社会的地位が高くて、家庭内でも仏壇か神棚みたいな意味を持ってる。
従ってこの仏壇たるにふさわしい、威風堂々たる、近代文明の利器然としたデザインを施さなくちゃならない、そうでなくちゃ売れないんだ、というんですね。
それに対して、ヨーロッパではテレビというのは総合文化体系のひとつにすぎない。
日常生活でも庭の手入れだの、散歩だのやることが沢山あるし、特に文化的なことに問題を限っても本を読まなきゃいけないし、音楽も聴かなくちゃいけない。
週末にはオペラ、芝居、映画を観にゆく習慣がいまだに連綿と生き残っているんですね。
テレビを観るという行為は、そういう文化生活のほんのひとこまにすぎないというんです。
従ってテレビも仏間においてある仏壇といったおもむきの、威風あたりを払うデザインじゃなくて、沢山ある家具のなかに埋没してしまうような目立たない日常家具的デザインでなくては困る、こういうことなんです。
それで東京の本社と大激論のあげく、やっと家具のあいだに埋没するようなTVセットをデザインしてもらうことができて、それがヨーロッパにおける販売成功の理由だ、とこういう話なんですね。
<山本> それもあるでしょうね、
同時にこういうこともいえるんじゃないですか。
このまえも心理学者のセミナーで話をしてきたんですが、ヨーロッパの人間には、家にとどまって おこもりをするよりも、ある場所に出かけてゆかねばならぬ、という下意識の願望があるんじゃないのか。
つきつめてゆくと聖地願望・聖所願望で、日常的には日曜に教会へ出かけてゆく、というあらわれかたになる。
家庭のなかに仏壇や神棚のような、礼拝の場を持ちこんではならない。
そういう原則がまずある。
たとえ食前の家庭礼拝という習慣があってもこれはあくまで略式のもので、家庭でミサをやることまでは許されない。
礼拝の場、聖地は家の外にあり、ミサに参加するためにはそこまで出かけてゆかなきゃならないんです。
ところが日本ではまず仏壇、神棚という礼拝の場が家庭のなかに入りこんでいる。
ミサにあたる法事にしても、坊さんがオートバイに乗ったりしてちゃんと家にきてくれて、主宰してくれるんです。 宗教の”出前え”方式です。
それで日本には日曜なら日曜に一ヶ所に集まって、ひとつの宗教行事を行う、という伝統がないんですね。
この一ヶ所に集まって祭礼を行う。という行為の延長が劇場のような公共施設に集まって、なにかをする、ということに繋がってゆくわけでしょう。
公の場所があって、そこに集まって、芝居なら芝居を観る、というのはこうした宗教的伝統、影響力を抜きにしては考えられない、と思うんです。
そこへゆくと日本の宗教行事として祭礼に出かけてゆく、という発想がほとんどない。
お寺は日曜日に必ず集まる、といった教会のような場所じゃない。
こうした聖地願望の欠如が影響して、皆で共同に楽しむとか皆で共同に聴くとかいう習慣が伝統文化に入りこまなかった。
だから、この国ではテレビ・セットが家庭に侵入しやすいような環境があらかじめ用意されていたんじゃないか、と思うんです。
仏間の隣にテレビがあるというのはつまり日本の文化的伝統にのっとった、たいへん落ち着きのいい光景なんじゃないんですか。
どうもひどい話になっちゃったけれども(笑)
そもそもテレビというのは、聖地願望の強い西欧より おこもり好きの日本に向いているんじゃないのかな。
四ッ谷駅付近の緑道(東京・千代田区) 3月26日撮影