[新装普及版] 「財運はこうしてつかめ」
渡部昇一(わたなべ しょういち 昭和5年~平成29年)
致知出版社 平成16年9月発行・より
ここまで見てきたように、若き本多(静六)博士は父親の死をきっかけに、満9歳のころから勉学に目覚めて、漢文の勉強を始める。
山林学校の試験では、その独学した漢文で首位の成績を収めたぐらいだから、本来、素質があった子どもであったと思われる。
実際、山林学校でも数学以外の成績はよかった。
ところが、その少年が数学だけは苦手で落第してしまった。
これはいったいどうしてであろうか。
静六少年ぐらいの素質と知的経験があれば、少なくとも落第はせずに済んだのではないか そう思う読者も少なくないだろう。
だが、どうやら漢文を学ぶ頭脳と、西洋文明を学ぶ頭脳とは、まったく別種のもののようなのである。
私は本多博士伝のこのくだりを読んで、すぐに連想したことがある。
それは夏目漱石の話である。
夏目漱石は子どものころから漢文が好きで、将来は漢学者になろうと思った時期もあった。
事実、漱石の漢詩は明治時代の漢詩文の中でも一等地を抜いている。
もし、彼が江戸時代に生まれていれば、ひとかどの漢学者になれたであろう。
だが、不幸なことに彼の生まれ育った時代は文明開化の時代であった。
これからの時代、漢文では身を立てられないという周囲の声もあり、彼は好きだった漢籍を諦め、英語を学ぶことにした。
こうして、のちの文豪・漱石への第一歩が始まるわけだが、その漱石も静六青年と同じく、数学でつまずくのだ。
そこで漱石は持っていた漢籍をすべて始末する。
そして、もう一度、西洋の勉強を本気でやり直し、ついに文部省の派遣による最初のイギリス留学生に選ばれることになった。
西洋の学問をマスターするために、漢籍で培った教養をいったんすべて捨てる このようなパターンは、漱石や静六青年のみならず、
当時しばしばあったようである。
なぜ、このようなことが起きるかといえば、やはり漢文の性格が大きく関係しているのだろう。
詩でも文章でも、漢籍には深みがあって、学び始めると楽しくてしかたがない。
しかも、漢文を朗唱すると、実に気持ちがよく、酔ったような気分になるのである。
(略)
ところが、子どものころから漢文に親しみ過ぎていると、頭が西洋の学問を受け付けなくなるという弊害をもたらすのである。
東大の漢学教授だった島田篁村(こうそん)の息子に島田翰(かん)という男がいた。
この男は日本が産んだ最高の漢学の校勘(こうかん)学者と言われるぐらい、子どものころから漢籍のできた人であったが、とうとう東大にはいれなかった。
この人が大学を受けるころになって、東大文科の試験科目に数学が入ったからである。
(略)
ちなみに、東大に入れなかったという劣等感があったせいだろうか、島田翰はその後、国宝級の本を盗んだりと、いろいろと問題を起こした。
そして、最後には自殺してしまう。
(略)
これは個人の行き方にかぎった話ではない。
なぜ近代のアジアにおいて、日本だけがすんなり西洋化に成功し、清国や朝鮮が失敗したか これもまた、結局は漢学の問題と言えるかもしれない。
清国にしても、朝鮮にしても、そこでくらしていた人が日本人より愚かであったとはとうてい思えない。
だが、いくら賢くても頭からいったん漢学を抜かないかぎり、西洋文明は入ってこないのではないか。
そう思えてならない。
日本は頭の切り替えが比較的スムーズにできたが、清や朝鮮では時間がかかった。
そのために、これらの国は西洋列強の植民地になったり、あるいは国際政治の犠牲になったとも言える。
文化会館(埼玉・朝霞)みたいな所で何かやってました。文化の日に撮影