「西洋人の神道観 日本人のアイデンティティーを求めて」
平川祐弘 (ひらかわ すけひろ 1931~)
河出書房新社 2013年5月発行・より
友人Wが突然こんな話をしてくれました。
三十年ほど前、彼は本郷の家と土地を親から相続した。
そのとき税金対策もあって一,二階を貸事務所にするために
ちいさな庭を潰してしまった。
たまたま母方の遠縁に郊外に家を新築してこれから庭作りをするという人がいたので、それほどつきあいがあったわけでもなかったけれども、
庭の樹と石を譲ることにしました。
そしてそれからまたずっと没交渉だったのが、先日その親戚に出会い、
家に招かれました。
玄関を開けると、観音竹が置かれています。
その緑を一目見てはっとさとりました。
母が大事にしていたものです。「まだ元気でいましたか」 と感無量です。
庭へ案内されると、以前本郷の庭に三,四本あったヒマラヤ杉を
原木としてこの郊外の庭で高く聳(そび)えています。
そのうしろには藤棚があり、堀には薔薇(ばら)があり、それぞれ思い出があります。
「みんな頂いたものですが、今度は藤が咲くころに遊びにいらしてください。きれいですよ」 と主人がいいます。
人の絆(きずな)もこうして結ばれましたが、自分もまた両親の庭木とまた結ばれたような気がしました。
さきほど感無量といったが、とうの昔になくなった父母の面影が
浮かびます。それにしても樹木の永遠性とはなんでしょうか。
さらにこんなこともありました。
その親戚の庭に佇(たたず)んだとき、感銘深かったのは実は植物よりも鉱物 石でした。
本郷の旧宅の小さな池の一部を形作っていた庭石は、医師だった父が
近くの料亭の置石だったものを戦後、庭師に頼んで運ばせたものです。
その石の齢(よわい)がいくつかは知るに由ありませんが、しかしその石が郊外の親戚の家でところを得ている姿を見て、
なんともいえぬ嬉(うれ)しさを感じました。
樹に霊があるなら石や岩にも霊がある、と心に深く印象されました。
樹の霊にもまして身にしみました。
かつて親が愛惜(あいせき)した庭を潰した際にどこかで
心の咎(とが)めを覚えていたに相違ない。
その庭石が落着いている風情を見て、安堵(あんど)の情をおぼえたのでしょう。・・・・・・・
そんな思いもかけぬWの感想を聞かされて、私はこんなことも考えました。
「さざれ石の巌(いはお)となりて苔(こけ)のむすまで」
『君が代』 の、この言葉を非科学的だと嗤(わら)う人は多いようです。
しかし庭石の話を聞くうちに 「さざれ石の巌となりて」 はいい言葉だ、という気がしだしました。
そんな石の生き方も、君が代のあり方もあるような気がしてきました。
そんな時間の進み方に詩が感じられます。
昨年11月21日 国立博物館(東京・台東区)にて撮影