~谷沢永一がサマセット・モームの「この世の果て」を紹介しています~
「古典の読み方」
谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)
祥伝社 昭和56年9月発行・より
「体面などは馬鹿馬鹿しいものです。人は自分の幸福を考えるべきです」
というこの一節は、高遠な哲学でもなく、思想でもないが、人間が自分の一生をいうものを、何かの局面に達して考える場合に、やはり想い起こすに足る名句と言えるのではないだろうか。
離婚に限らず、たいていの人間が、たとえばサラリーマンが敢然と辞表を出すような場合、見えざる世間というものに対して、自分がフットライトを浴び、舞台の上の俳優であるかのように思い上がって、一つの決断をすることがある。
つまり、センチメンタリズムに自分で酔ってしまうような局面が、人生には一度や二度は訪れるものである。
そこまで至らずとも、いわば決心がつかずに、人生をずるずると過ごした人もいるだろう。
あるいは、それを自分で明晰(めいせき)に分析し、決断した人もあるだろう。
あるいは血気にはやって一つの決断を下してしまって、あとになって引っ込みがつかず、くよくよした人もいるだろう。
つまり、モームはこう問いかけているのだ。
あなた方が人間的な決断であると思い込み、肩を怒らして行うことが、実は世間からすれば何の効果もないことであり、それは、ただ世間体というものに対する義理立てに過ぎないのではないか。
そこのところを一遍でも考えてみたことがあるか、と。
さらに、人生の岐路に立たされ、自分がそのものを捨てるか、あるいは捨てないでおくかという決断を迫られたとき、その判断の基準の中へ、世間体、あるいは世間受けといったものを片鱗(へんりん)だに持ち込んではいけませんぞ、持ち込んだが最後、自分の本当の、内容ある幸福はけっして得られませんぞ、とモームは警告しているのである。
だから、自分に本当に必要なものは、世間体というものを考えないで自分の人生を守ることではないか、あるいは、時によれば、自分の手で握り獲得することではないか。
言葉に出して言うとひじょうに簡単に思えるが、現実には、これはなかなかむつかしい。
しかし、モームの言うごとく、完全に世間体というものを意識から抹殺することはできないにしても、可能なかぎり、世間体という強迫観念を自分の頭の中で、冷静に看貫(かんかん)(台秤・だいばかり)に乗せて、値踏みをしてみることはできるのではないか。
そうすれば、何か重大な局面に遭遇したとき、自分の判断、決断というものが、やはり微妙に変わってくるのではないか
~(人差し指のちょっと笑ったこと)~
先日、スーパーで買い物が終わってから、アッと思ったんです、
豚肉と鶏肉を買うのを忘れたんです。すぐに戻って肉を買って、さっきと同じレジに行ったら、 レジのおばちゃん 「お帰りなさい」
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5月18日 光が丘 四季の香ローズガーデン(東京・練馬)にて撮影