~書き写しながら思ったのですが、これ、もしかしたら前にも紹介したも知れません、調べるのが面倒なもので・・・・いい加減にやってます・・・(人差し指)~
「人生に活かす孟子の論法」
谷沢永一(たにざわ えいいち)・渡部昇一(わたなべ しょういち)
PHP研究所1998年5月発行・より
公孫丑が 『子を教えるには父が一番よさそうなものですのに 「君子ハ教エズ」 ということを申すのはどういう訳でありますか』 と質問した。
孟子の言うよう、『それは実際上ぐあいがよく行かないからだ。
教える以上はどうしてもきびしくなる、きびしく教えてもおぼえないと、ついには立腹叱責もする。
そうして』腹立ちまぎれには、これほど教えるのにと、かえって子をにくむ気持ちも起きる。
子の方でも又、おやじはわしにばかりきびしい事を言って自分はだらしながないではないか、と考えるようになり、結局は親子の愛情がそこなわれる。
親子の仲にひびがいるのは、甚だおもしろからぬことで、これはどうしても避けねばならぬ。
それ故昔は 「子ヲ易エテコレヲ救ウ」 と言ったものだ。
一体 「善ヲ責ムル」 は朋友の道であって、父子の間で善を責めることはせむものだ。
あまりに善を責め強いると、父子が離反することになるのであって、父子の離反はこれより大きな不祥事はない。』 (穂積孟子「七九、君子は子を教えず」 より)
<谷沢> この章で言っているのは、教育にはもともと無理があるということで、教育の根本に関わる重大問題です。
つまり、教えることの内容と、それを教える人の人柄とを区別することはできないということです。
たとえばここでは、父親が子供にいいことを説教する。
「そんなことを言うけどお父さんは朝の午前二時に帰ってきて、お母ちゃんと喧嘩してたじゃないか」と、子供は言い返す。つまり、それが人情です。
子供に対して、言論の内容と父親の生活ぶりとを分けて考えろと言うのは無理な話で、だから師弟の間には、当然しかるべき距離が必要になる。
あまり近すぎると、教育はできません。
これは極端ですが、「君子ハ子ヲ易ウ」 、交換するということにもなる。
6月6日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影