「古代日本のルーツ 長江文明の謎」
安田喜憲(やすだ よしのり 1946~)
株式会社青春出版社 2003年6月発行・より
同じ農耕民でも、畑作農耕民と稲作農耕民ではまったく性格が違う。
コムギやオオムギをつくる畑作農耕は、単純労働的色彩が強い。
極端にいえば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいして手間をかけなてもムギは育っていくのである。
そのような単純労働は、厳しい階級社会を生んだ可能性が高い。
単純な作業なので、農耕は奴隷にやらせておけばいいからである。
支配者は都市に住み、そうした奴隷を管理する。
都市は生産の場というよりも交易と消費のセンターとしての性格を強め、他の地域から多くの人々が集まるようになる。
あるいは、富を蓄え、他の都市と戦うために武器を蓄えるなど、富と武力センターとしての役割を担っていただろう。
それに対して、稲作農耕は、複雑な生産システムを必要としている。
苗代(なわしろ)をつくってイネを育て、大きく育てるために水田に植え換えをする。
秋に実るまで水田の水の管理もし、田の草も取らなければならない。
イネを育てるにはたいへんな手間がかかるのである。
こうした複雑な生産システムを維持するには、熟練の農民が必要になる。
畑作のように奴隷に任せておけばいいというほど単純なものではない。
都市に住む者が出てきても、彼らも稲作稲作労働の一端を担うことになる。
畑作が自分の欲望を解放できる農業であるのに対して、稲作は自分の欲望を解放しにくいといえる。
いつも水に支配されていて、共同体に属さないことには、稲作が成り立たないからである。
そうしたことから、稲作農耕民による都市の性格は、畑作農耕民のものとは違ってくる。
「聖書の土地と人びと」
三浦朱門・曽野綾子・河谷龍彦
平成13年12月新潮社発行・より
本書の単行本は平成八年六月新潮社から刊行さた。
<三浦> もう一つ言いますと、
農耕民というのは植物相手なのです。
植物にも喜怒哀楽はあるかもしれないけど、
反応というか、抵抗はずっと弱い。
そこへいくと、羊にせよロバにせよ、しぶとい。
それを圧迫して支配していくうちに、自然に統治力とか軍事力とか、
あるいは人間に対してこすっからくもなるし、
権謀術数にも長(た)けてくる。
軍事的指導者は、あの中から出ますね。
<曽野> 牧畜民から。
<三浦> 政治的指導者は、農耕民から出るかもしれませんけども。
東京国立博物館(台東区)の銀杏の木 5月16日撮影