アメリカを 「合衆国」 としたのは江戸幕府の役人である。
嘉永六年、というのは例のペリーが黒船をひきいて浦賀にあらわれた年だが、この時の幕府の文書にすでに、「合衆国水師提督」 などと見えている。
彼らは、ユナイテッド・ステイツ(結合した国々)の 「ステイツ」 を 「衆」 と訳したわけではない。
いくら幕府の役人が英語ができないったって、それほどバカではない。
幕府の役人がアメリカという国の一番の特色と思ったのは、その国には世襲の君主がいない、ということであった。
今とちがって当時、つまり十九世紀なかばごろには、王様も皇帝もいない国というのはめったになかった。
アメリカはめずらしい国である。
それじゃいったい、誰がどうやって国を治めているのかと聞いてみれば、国人が入札(いりふだ)して 「プレジデント」 と称する四年交替の頭目を選び、国人の代表が 「コングレス」 という名の集会所にあつまってやっているのだという。
そこで幕府の役人が思いうかべたのが、『周礼(しゅらい)』 という支那の古い書物だ。
理想的な政府の機構をしるした経典である。
そのなかに 「大封之礼合衆也」 という文がある。
国の境域を定める儀式の際は国人がみな集合する」 という意味である。
国人が一堂に会して国事をおこなうのは、まさしくこの 「合衆」 にあたる。
それでアメリカを 「合衆国」 と呼んだのである。
(略)
「合」 はユナイテッドで 「衆」 は 「州」 のまちがい、などというのはよほどトンチキな人の言うことだが、こういう人たちは、そもそもアメリカの各ステイト(国)を日本語で 「州」 と言うのがおかしいことに、なぜ気づかぬのだろう。
日本語の 「州」 は、「県」 などと同じく。地方行政区を呼ぶ名称である。
英語で言えば 「プロヴィンス」 くらいだろう。
対してアメリカの 「ステイト」 は、それぞれに憲法を有し、独自に法律も作れば軍隊も持つ政治体であった、「コモンウエルス」 ないし 「ネイション」 と言いかえ得るものだ。
そのステイトがユナイト(結合)した連邦共和国がユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカである。
「合衆国」 という日本語の名称が他に例がなくてわかりにくいなら、「アメリカ連邦」 と言えばいいだけのことである。
なんで 「合州国」 などとくだらない駄洒落を言い立てることがあろう。
(略)
※{ あとからひとこと }
ユナイテッド・ステイツを 「合衆国」 と訳したのは、日本より中国のほうがさきであった。
清の道光二十四年五月(1844年7月、日本では天保十五年五月)厦門(アモイ)郊外望厦村で、米清間の望厦条約(ぼうかじょうやく)(トリーティ・オブ・ワンシア)が結ばれた。
この時、「大清帝国」 に対して、アメリカを 「亜美理駕大合衆国」 と称したのが、この国名を公式称したはじまりである。
訳語をつくったのは、当時マカオに在住したドイツ人宣教師カール・ギュツラフらであるという。
ギュツラフは漢語をよくしたというが、しかし周礼のことばを知っていたとは思われない。
ギュツラフと清朝官僚との合作であろう。
幕府はこれをつぎもちいたものと思われる。
以上、米子市の宮下喜代治さんの御教示による。
『 「週刊文春」 の怪 』
高島俊男 (たかしま としお 1937~)
株式会社文芸春秋 2001年1月発行・より
4月12日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影