当時はまだパナマ運河がなく、自動車はもちろんのこと鉄道さえもなかったため、東部と西部の連絡は馬車で半年もかかりました。
物資の大量輸送はもっぱら南米のマゼラン海峡の先を大きく迂回して四ヶ月も要する船舶のみが頼りでしたが、それも季節によっては海が荒れて事故が多発する始末でした。
そこで大陸横断鉄道の建設が急がれたのです。
ところがこの鉄道建設は労働力確保の問題や技術的困難さに加えて、自分たちの居住地を一方的に侵害されることに怒(いか)って立ち上がった先住民(アメリカインディアン)たちの頻繁な武力攻撃に曝されたり、
また平野部では数千万頭を数えるバッフアロー(アメリカ野牛)の大群に、しばしば工事を中断されたりするなどで、なかなか思うように進みませんでした。
そこで合衆国政府は軍隊を動員して先住民の武力討伐に努めると同時に、先住民たちがこのバッフアローに大きく依存して生活していることに目を付けました。
すなわち、彼らの生存基盤をも奪う目的で、組織的にバッフアローを根絶やしにする一大虐殺を始めたのです。
鉄道会社もこの動きに加担して、大々的に観行狩猟としてのバッフアロー狩りのツアーを始め、アメリカ中どころか、ヨーロッパの貴族上流階級の客まで集めて、時速十キロという低速で走る列車からのバッフアロー狩りで大儲けをしました。
その結果、十九世紀初頭には北米全体で推定六千万頭を数えた巨大なバッフアローが、一八九〇年頃(日清戦争頃)にはなんと動物園や牧場などで飼育されていた僅か1千頭を残して地上からすっかり姿を消してしまったのです。
しかもこの野生のバッフアローの消滅によって、今度は食糧を失った狼が家畜を襲うようになったため、猛毒のストリキニーネをまぶした肉片を草原にばら撒くことで狼の根絶を図り、これにも成功しました。
このように次々とまるで連鎖反応のようにアメリカの大草原の自然環境は短期間に大きく変化し続けたため、ついにそれまで季節によっては空を暗くするほどの大群で飛び交っていたロッキー・トビバッタまでが、すっかり消えてしまったのです。
「日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論」
鈴木孝夫 (すずき たかお 1926~)
株式会社 新潮社 2014年9月発行・より
4月22日 光が丘 夏の雲公園つばき園(東京・練馬)にて撮影