「木綿の登場」と上杉謙信 | 人差し指のブログ

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パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

もちろん戦国大名が注目したのは米の生産だけではありません。

 

 

 

他にも様々な特産品の開発にも力を入れています。

 

 

 

たとえば、当時、生産に力が入れられたものの一つに、

尾張、三河(みかわ)地方の 「木綿」 があります。

 

 

 

もともと日本には木綿はありませんでした。

 

 

 

インドの特産品だった 「木綿」 が中国を経由して

日本に入ってきたのが、

ちょうど室町時代なのです。

 

 

 

 

それまで日本には綿でできた着物はありませんでした。

 

 

 

では何を着ていたかというと、麻や苧(からむし)です。

 

 

 

絹も存在していましたが、

非常に高価で日常的に使えるものではありませんでした。

 

 

 

苧は、イラクサ科。英語では 「ラミー」 と言います。

 

 

 

日本を含む東アジアに広く自生(じせい)する植物です。

 

 

 

日本人は繊維を取るために、古くから栽培していました。

 

 

 

苧を用いた織物は、今でも 「越後上布(えちごじょうふ)」などに見ることができますが、今ではほとんど使われなくなっています。

 

 

 

苧で織った布は、肌触りがガサガサとあまり良くありません。

 

 

 

それに対し、木綿はしっとりと柔らかく、夏は汗を吸収してくれ、

冬は暖かく肌触りもいい。

 

 

 

当時の人々が木綿に飛びついたのも無理ありません。

 

 

 

木綿は、最初輸入品でした。

 

 

それが国内で人気が高まるとともに、

国内での綿花(めんか)栽培が進み、

純国産の木綿製品が出回るようになってきました。

 

 

 

 

それがちょうど戦国時代だったのです。

 

 

そして、その国産綿花の圧倒的な産地が、

あまり知られていないのですが、

温暖な尾張、三河地方だったのです。

 

 

 

 

ちなみに苧は寒さに強いので、

日本の一大産地は越後など北の地域でした。

 

 

 

 

越後と言えば上杉謙信です。

 

 

 

これから何がわかるのかというと、 それまで日本の織物市場を席巻(せっけん)していた苧が木綿に取って代わられることで、 信長・家康の経済力が大きく伸び、 一方、苧の産地だった越後の上杉謙信の経済力は低下していった  ということです。

 

 

 

 

戦国時代には、

このような直接に刃(やいば)を合わせるのではないところでも、

しのぎを削る戦いが繰り広げられていたのです。

 

 

 

 

「学校では教えてくれない戦国史の授業」

井沢元彦(いざわ もとひこ  1954~)

株式会社PHPエディターズ・グループ 2015年9月発行・より

 

 

 

3月12日 大泉中央公園(東京・練馬)にて撮影