「日本の生きる道 米中日の歴史を三点測量で考える」
平川祐弘(ひらかわ すけひろ 1931~)祐は正確には示+右です
株式会社飛鳥新社 2016年8月発行・より
このように中央の統制を無視して満州事変で 「大功」 を立てた板垣征四郎、石原莞爾 の両人に惚れこんだ民間人もいた。
満州の奉天で一九三五(昭和十)年息子が生まれるやその人は感謝と希望をこめて二人の名前から 「征」 と 「爾」 を拾い我が子の名前とした。
日本が生んだ世界的指揮者、小沢征爾の名前はこうした事情に由来する。
小沢の父のみならず満州在住の多数の日本人にとっては日本軍の勝利と満州国の建国は喜びそのものであったろう。
内地でも国民は 「軍に感謝」し信頼した。
新聞は政治家や官僚の悪口はいうが軍人の批判は控える。
だから一般の国民は軍部だけは清潔で立派だと思いこむ。
するとそのような風潮の中で次々にクーデターが計画された。
昭和維新の志士などと呼ばれた血気に逸(はや)る壮士や青年将校が日本の首相や重臣を暗殺する。
ロンドン軍縮条約に賛成した首相濱口雄幸は銃で撃たれ、重傷を負い、後に死亡する。
満州事変の成功が軍の自信を高め、そんな気運に押されたためだろう、昭和七年五月十五日には満州国の独立承認を躊躇(ためら)うとみなされた犬養毅(いぬかいつよし)首相が殺害される。
ところが世論は下手人の助命を求め人々は嘆願書に進んで署名する。
そうなると一国の首相を殺した将校たちに、軍法会議は死刑判決を下すこともできない。
「国を救う者は自分たちだけである」 という青年将校の動機の純粋に世論が同情したからである。
昨年11月26日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影