南洋諸島の独立と日米 | 人差し指のブログ

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『こうして、2016年、「日本の時代」が本格的に始まった!』

日下公人(くさか きみんど 1930~)

ワック株式会社 2016年2月発行・より

 

 

 

日本は第一次世界大戦のときから「独立支援」を基本方針としていた。

 

 

 

第一次世界大戦後にジュネーブの国際連盟ができ、敗戦国ドイツの領土の分割を話し合っていたとき、

日本から国連に行っていた新渡戸稲造(にとべいなぞう)は 「日本はそういうことはしない」 と言って、委任統治という制度をつくった。

 

 

 

新渡戸稲造は国連事務長として中心的役割を果たしていたから、「日本は委任なら受けてもいい。ただし、それは将来の現地の独立のためだ」 と日本のやり方を主張して、委任統治の制度を国連に認めさせた。

 

 

 

そのときに受け取ったのがパラオ、トラック、サイパンなどの南洋諸島である。

 

 

日本の植民地にしたわけではなく、一時預かりとした。

 

 

一時預かりだから、預かっている期間はできるだけ短いほうがいいと考えていた。

 

 

 

その間に小学校をつくって現地の人たちの教育をし、運動会もやり、日本の歌も教えていた。

 

 

 

委任統治を受けるにあたって、日本政府は現地がどういうところなのかを調べた。

 

 

 

ドイツが南洋諸島を占領したのは、フランスと競ってアジアに進出してきた一環だ。

 

 

イツは南洋諸島を流刑地(るけいち)にしていた。

 

 

ドイツの軍艦がときどき来て流刑者を置いていく。

 

 

オーストラリアも もともと流刑地であったが、それと同様である。

 

 

 

委任統治を引き受けた日本は、南洋諸島の独立支援を考えていた。だから学校をつくり、教育をした。

 

 

 

日本が戦争に負けたあとに、アメリカは日本を追い出し、南洋諸島に対して援助物資を山のように配り、彼らが働かなくても食えるようにした。

 

 

援助物資で 「飲めや歌えや」 の社会にしてしまった。

 

 

働かずにアメリカから物資をもらっているだけでは、独立などできない。

 

 

 

日本の委任統治時代に日本の教育を受けた現地の人たちは、「アメリカのやり方は間違っている」 と考えた。

 

 

 

本当に現地のことを考え、現地の人の力で独立できるように支援したのは日本だということが分かってきた。

 

 

 

南洋諸島の一つのパラオに、2015年、天皇陛下が訪問され、ペリリュー島で慰霊碑に供花をされた。

現地では天皇陛下が大歓迎された。

 

 

 

あれほど歓迎されたのは、天皇陛下に対する思いもあるだろうが、委任統治以降、日本人が現地の独立のことを考えて支援したことの表れである。

 

 

 

アジアの人たちは、日本が独立支援をしたことを知っている。

 

 

 

現地の人を教育し、自分たちの力で独立することを支援した。

インドネシア、マレーシア、インドの独立運動は日本が種を蒔いたものである。

 

 

そのことは、アメリカ人やイギリス人もよく知っている。

 

 

 

日本が侵略をしなかったことを知っているからこそ、「日本は侵略した」 「あれは侵略だった」 とウソを言いたいのである。

 

 

 

彼らのしたことこそが侵略だが、それを隠すために 「日本のやったことは侵略だ」 と言い続けている。

 

 

 

光が丘公園(東京・練馬)のユリノキ 11月5日撮影