古代シナの言語事情 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

 

『人間は一生学ぶことができる 佐藤一斎「言志四録」に見る生き方の智恵

谷沢永一・渡部昇一

PHP研究所 2007年5月発行・より

 

 

 

<渡部>    私が思うに、シナの一番の古典が、文法もない言葉で書かれています。

 

 

「お父さんとお母さんは、きのう浅草に行って、すき焼きを食べました」 を英語で

 

「ファーザー、マザー、浅草、ゴー、イート、イエスタデイ・・・・・・」 というような感じで、

言わば 「ビジョン・イングリッシュ」 です。

 

 

これは宮脇淳子さんが言っていることですが、

古代シナにおいてはいろいろな民族がいて、言葉が通じない。

 

 

そこで、絵文字を並べるような感じで単語を並べて話した。

 

 

だから、後世になると、読み方が幾つも出てきて、古典を読むのにいろいろな注釈が必要になったのでしょう。

 

 

プロの学者は、白文で漢文を読むとき 「読む」 と言わず 「点を打つ」 と言ったんですね。

 

 

考え考え、どこでどう切って読むか点を打ってゆく    という感じです。

 

 

しかも、それが官吏の登用試験のテキストだから、注をつけてもらわないと正解がわからなくて困ります。

 

 

日本では官吏登用試験がなかったから、そんな厳密なことは いらないという面があります。

 

 

こうしてシナの学問のほうは整うわけですが、

整ってしまったから、それを勉強しているうちに何もできなくなってしまった感じもします。

 

 

シナの停滞性とは、訳のわからない文章の古典があり、注があり、

それでもわからないので釈がありといったところで縛られているうちに身動きできなくなったのではないでしょうか。

 

 

10月18日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影