長谷川櫂さんが 『古池に蛙は飛びこんだか』 という本を書いた。
「古池や」 というのは目の前に古池があって、その古池にカエルが飛びこんだんじゃない。
「古池や」 といって古池を見たときに、カエルが飛びこむ光景を思った。
眼前の古池と、飛びこむカエルは別のところにいる、おおよそ そのような説でした。
これが句切れの作用ということになるわけです。
この説は、従ってもいいし従わなくてもいいんです。
古池と飛びこむカエルが別の世界にあるという考え方と、つながった同じ世界にあるという考え方と二つがあり得る。
その二つが もうろうとして こんがらかっているところが、僕はあの句のおもしろさだと思う。
つまり長谷川さんの解釈は、それなりに正しいんですよ。
でも別解もあって、その別解とのまじりぐあいがあの句のおもしろさだと思うんです。
加藤楸邨さんの 「鰯雲人に告ぐべきことならず」。
その解釈(1 )。鰯雲をきれいだなあと見ている。ところで、自分が今悩んでいるあの女の問題 (あの金銭の問題その他何でも) は、だれにも相談できない、
やっぱりいわないほうがいい。沈黙を守ろう。
もう一つの、解釈(2)。ああ鰯雲きれいだな、これを人にいってもだれもわかってくれないな。
二つの解釈で、たぶん俳句の初心者は (2) だけで考えていると思う。
そして俳句の専門家は (1) だけで考えていると思う、おそらく。
僕は、(1)と(2)の解釈の二つが紛れるところが、俳句のあいまい性で、俳句のおもしろさなんだろうと思うんです
正解がどっちともいえないところがおもしろい。
「文学のレッスン」
丸谷才一(まるや さいいち 1925~2012) 聞き手 湯川豊
株式会社新潮社 2010年5月発行・より
7月31日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影