歴史学者・末永雅雄の嫉妬 | 人差し指のブログ

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   昨日からの続きです(人差し指)    

昭和45年、網干善教(あぼし よしのり)が高松塚の壁画を発見し、自ら報道機関に公表したとき、網干善教の師であり関西大学史学科の同僚でもある末永雅雄は、網干の行動に激怒し、長年に及ぶ師弟関係を一瞬に解消し、即日、網干に破門を申し渡した。

末永雅雄の思惑(おもわく)によれば、網干は発見を誰にも告げることなく末永邸に直行し、末永雅雄を丁重に高松塚まで案内し、末永が全マスコミに初めて堂々と公表するという段取りを踏むべきであった。

もちろん末永は高松塚の発見者でもなく壁画とはなんの関係もない。

けれどもすべての功績は師である末永に譲って、その影に網干は小さく身をかがめ控えているべきであった。

もとよりこれほど理不尽な期待を持つ資格が末永に片鱗ともあるわけがない。

しかし末永は直ちに網干を破門したのみならず、その度し難い怨念はのちのちにまで及んだ。



  その後、太安万侶(おおの やすまろ)の墓なるものが見出されたとき、末永は特に談話を発表し、これは高松塚壁画の出現に優ること数等の発見であると、比較にもならぬ極端な表現を用いて網干の実績をひたすら貶(おと)しめた。

そして末永の怨念はまだ続く、末永および網干と並んで関西大学史学科の同僚である大庭脩が、『江戸時代における唐船特渡書の研究』(昭和42年・関西大学東西学術研究所)に執筆した「研究編」を18年後に独立改訂した『江戸時代における中国文化受容の研究』(昭和59年・同朋舎出版)を強力に推挙して学士院賞を受けさせた。

網干善教に対する見せしめである。

以上の経緯を観察していた私は、末永の網干に対する生涯消えなかった怨念から推して、瀧精一その他東大系諸教授の八代に対する憎しみの度合いを思い描いたのである。

私はこれが理由のない推定であるとは今も撤回する気持ちがない。



「読書通   知の巨人に出会う愉しみ」
谷沢永一 関西大学名誉教授 (たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社学習研究所 2007年6月発行・より


光が丘 四季の香公園の薔薇(東京・練馬)5月9日撮影