白石は超一流の優秀な学者であり、野心的な人物でもあった。
出世をねらい、将軍の侍講となり、国をうごかした。日本のことを日本語で書いた。
本人もみずからの優秀さを知っていたから、自伝をあらわし後世にのこした。
後世にのこすばかりでなく、だれにでもひけらかしたようだ。
謙譲の美徳とは対極の人物である。だからきらわれた。
失脚後、うらさみしい郊外にくらした白石のもとには、だれも訪ねてきてはくれなかった。
あたえられた屋敷は内藤宿、いまの新宿あたりにあった。
いまの新宿はたいへん繁華なところだが、江戸時代はそうではない。畑ばかりだった。
娘の縁談は「親はあの鬼の新井」と知れるとたちまち破断になるから死んでも死にきれない、とは六十五歳、失脚後六年めに書いた手紙に見える愚痴である。
自分はこんなにすぐれた人物であると自伝を書き、また実際に数多くのすぐれた著述をのこしながら、いっぽうではおとずれるものもないわびしいくらし。
正しく評価されないことのくやしさかなしみは、いらだちにかわり、一番の友人であった、室鳩巣(むろきゅうそう)とも晩年はつきあいがとだえてしまう。
室鳩巣は、宝永八年、家宣の時代に白石の推挙にやって幕府につかえることになった人物である。
木下順庵の門下で白石とならびたつ俊才であった。
年齢も一つちがいで、仲のよい同僚だった。
ところが八代吉宗が将軍位をついだとき、白石はしりぞけられたのに鳩巣はのこされる。
のこされたばかりか、その後は吉宗の側近として享保の改革を補佐することになる。
白石はおもしろくない。自分をおとしいれ将軍にとりいった卑怯者と思いこみ、鳩巣をうらんだ。
そしてしだいに疎遠になっていったようである。
そんななかで最も心をかよわせた相手は、仙台の学者佐久間洞巖であった。
失脚後に手紙で知りあい、一度も合ったことのない人である。
合ったことがないからこそ、白石とうまくつきあえたのかもしれない。
洞巖あての手紙には「己のすばらしさ」が切々とつづられている。
<私号白石のこと(中略)北京、南京、琉球、朝鮮までもきこえ候うて>
同じ手紙にこんなところも見える
<老朽は夢程の学文と名誉の、清朝、朝鮮、琉球、阿蘭陀などへ聞こえ候うて>
ねえ聞いてください、わたしの名前は海外にまできこえているのですよ、というのである。
手紙だからよいが、これを面とむかってくりかえし聞かされてはたまったものではない。
来てくれる人がなくなったのも無理はない。
しかしそういう人であったからこそ、自分の優秀さを、自分の手でせっせと書いた人であったからこそ、新井白石の名とその功績が、こんにちにまでつたえられたのであった。
「座右の名文
高島俊男(たかしま としお 1937~)
株式会社 文藝春秋 2007年5月発行・より
光が丘公園のオルレアの花(東京・練馬)5月3日撮影