関所撤廃と「楽市楽座」 | 人差し指のブログ

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中世という時代は、よくいわれるように、公家(くげ)と寺家と武家の三つが、お互い補完しあいながら権力を行使してきた。

公家は朝廷勢力、寺家は有力な荘園(しょうえん)領主でもある大きな寺社で寺社勢力。

そして、武家が鎌倉時代においては執権北条(ほうじょう)氏を中心とする鎌倉幕府、室町時代においては将軍足利(あしかが)氏を中心とする室町幕府と有力守護からなる幕府・守護勢力というわけである。

 しかし、室町時代の中ごろから、この三権門とは別に、もう一つの勢力が台頭しはじめた。商人である。

銭貨(せんか)の流通、それにともなう年貢(ねんぐ)の銭納や、遠隔地の商取引に為替が登場し、港湾や重要都市に物資の管理や中継ぎ取引を行う問丸(といまる)があらわれ、高利貸業者としての土倉(どそう)・酒屋も急増してきた。

三権門のうち、公家と寺家は上手に商人を取りこんでいった。

商人に特権を認める代償として、上納金、つまり、冥加金(みょうがきん)を取っていたのである。


そうした経済政策を最も苦手としていたのが武家だったともいえる。

将軍も、諸国の守護大名も、そして、守護大名に代わって台頭してきた戦国大名も、急速に力をつけてきた商人の力を味方にすることには成功していなかった。

そのことに信長は気づいたのである。

もっとも、信長がある日突然気づいたというわけではなく、信長の信秀(のぶひで)が気づいていて、伊勢(いせ)湾舟運(しゅううん)に従事する津島湊(みなと)の商人たちの経済力を飛躍のバネにしており、信長は父信秀のやり方をまねて、さらにそれを大規模にしたということができる。

「公家や寺家だけに甘い汁をすわせてなるものか」といったところだろう。

そして、実際に、商人との結びつきを強めていくと、公家と寺家のやり口もみえてきた。

信長は公家と寺家の力を弱め、武家が中心になった権力の構図を描いていたので、公家・寺家の経済基盤となっていた商人と、公家・寺家の結びつきを弱める方策を考え、それを実行しようとした。

それが、関所撤廃と楽市楽座(らくいちらくざ)政策である。

「集中講義 織田信長」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
株式会社新潮社 平成十八年六月発行・より

光が丘公園(東京・練馬)1月23日撮影

光が丘公園