「暦問題」天皇VS織田信長 | 人差し指のブログ

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信長が正親町天皇にしきりに譲位をせまった前後、朝廷はもう一つ難題を信長からつきつけられていた。

暦問題である。さきに元亀から天正への改元のところでみたように、元号決定権は天皇にあった。

それと同時に暦に関することがらも天皇の掌中にあった。

要するに”時”を天皇が支配している形である。

  当時、全国的なレベルでいえば、京歴ともいう宣命歴(せんみょうれき)が使われていた。

朝廷の陰陽頭土御門(おんようのかみつちみかど)氏の制定する暦で、これがいわば朝廷公認の暦である。

ところが、それとは別に、地方歴も存在していた。

いちばん有名なのが伊豆(いず)の三島(静岡県三島市)で作られている三島歴であるが、ほかに、信長の本拠地だった尾張にも尾張歴というものがあった。

  旧暦では、いまのような四年に一回の閏年(うるうどし)というやり方ではなく、何年かに一回、月そのものをもう一度やる閏月を入れる形だった。

そして閏月の入れ方が、京歴と地方歴でちがうこともあったのである。


天正十年(1582)から翌天正十一年にかけてもまさにそうだった。

京歴、すなわち、宣命歴では、天正十一年の正月に続けて閏正月を入れることになっていた。

ところが、尾張歴では、天正十年の十二月に続けて閏十二月を入れる形だったのである。

信長は京歴のやり方ではなく、尾張歴のやり方でやるべきだと主張しはじめたのである。

正親町天皇サイドからいえば、「信長が歴問題に口出しをしてきた」とうけとめた。

要するに、”時”を支配する天皇大権を信長が侵しはじめたとみたのである。

勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)が、その日記である『日々記』の中で、「十二月閏の事申し出、閏有るべきの由(よし)由され候(そうらふ)。いわれざる事なり。

これ、信長無理なる事とおのおの申す事なり」と述べているように、公家側では、これを信長からの無理難題とうけとめ、口ぐちに「信長は無理なことをいう」と、信長に対する反撥(はんぱつ)を強めている。

正親町天皇としてみれば、いままでさえそのような態度をとる信長が、自分の息のかかった誠仁親王が天皇になったとき、さらにとんでもない無理難題を押しちけてくるかもしれないと考えた。

信長に対する警戒の念を強めたといってよい。

「集中講義 織田信長」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
株式会社 新潮社 平成十八年六月発行・より

光が丘公園バードサンクチュアリー(東京・練馬)1月23日撮影

バードサンクチャアリー