戦国武将と呪術 | 人差し指のブログ

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いいものは取り入れる。それが信長の生き方だったし、そこに流れているのは合理主義そのものだったといってよい。

そうした信長の合理主義らしさを伝える事例はいくつかあるが、ここでは呪術(じゅじゅつ)的軍配者のことからみていくことにしたい。

信長の若いころ、伊束法師(意足法師とも)という呪術的軍配者、すなわち、軍師がいたことは、各種史料に見える。


永禄三年(1560)の桶狭間(おけはざま)の戦いのころは、信長の側(そば)にいたことは確実で、伊束法師が占い、当日の大雨を予想していた可能性がある。

というのは、当時、呪術的軍配者は、戦勝祈願の加持祈禱(きとう)をやったちするだけでなく、観天望気(かんてんぼうき)、すなわち、いまでいう、天気予報にたけていたからである。

  ところが、その後、伊束法師の活躍はみられなくなる。

信長が次第に合理主義的な生き方をするにつれ、伊束法師のような呪術的軍配者を必要としなくなったからであると思われる。

これは、戦国のまっただ中であることを考えると、驚きといってよい。

同時代の信長以外の武将たちの戦いぶりをみれば、依然として、呪術的軍配者がはばをきかしていたことが明らかだからである。

  戦いのとき、いくつかの作戦の候補が出てきたとき、その案を鬮(くじ)にして、神前で軍師にその鬮を引かせるということを本気でやっている。

たとえば、薩摩(さつま)の島津氏では城攻めのとき、すぐ攻めるか、もう少し様子をみるか、今回はやめるかの三つの札を作りそれを軍師に引かせたという例もあり、

また、豊後(ぶんご)の大友氏と戦うに際し、肥後の方から攻めるか、日向(ひゅうが)の方から攻めるかをやはり札にし、霧島社の神前で鬮にして引かせたなどという例もある。
  
  その点、信長の戦いは、攻める方角にしても、信長が合理的に考え、その考えによって決められていったわけで、このことのちがいはかなり大きかったといえるのではなかろうか。


「集中講義 織田信長」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
株式会社新潮社 平成18年6月発行・より

軍師には大きく分けて、呪術的軍師と参謀型軍師の二つがあり、前者は軍配を使って占ったりすることから軍配者型軍師などともよばれている。

その一人が、武田信玄の軍師として有名な山本勘介である。

  山本勘介の呪術についてくわしく記す『甲陽軍鑑』によると、勘介は、宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)という「五音」の占いを行ったということと、

「ゑぎ・さご・すだ、来りやう、行やう」を見たということが書かれている。

  「五音」の占いは五行思想に基ずくもので、「ゑぎ・さご・すだ」は、それぞれ、「ゑぎ」が烏(からす)、「さご」が鳶(とび)、「すだ」が鳩(はと)で、勘介は合戦のとき、これらの鳥の飛び方によって占っていたことがわかる。

この三つの鳥は軍鳥などともよばれていた。

桶狭間の戦いの時、熱田社で戦勝祈願をした織田信長が、飛び立つ二羽の白鷺を見て、「神威のほど顕はれ奇瑞一方ならず」と全軍叱咤したこともこれと関係していよう。

「戦国大名と読書」小和田哲男
柏書房2014年2月発行・より

台湾原産のフウ(楓)の紅葉 1月8日撮影・朝霞中央公園(埼玉・朝霞市)

フウ(楓)の紅葉