悪党・秀吉 | 人差し指のブログ

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事実、諸史料から秀吉の行動パターンを冷静に抽出してみると、秀吉という人間は、大きな意味で、たいへんなワルだったのに違いない、と思わざるを得ない。

秀吉の出世階段の上がり方は、たいへん意図的、かつ巧妙であり、きわめて術策に満ちたものではなかったか、と想像されるのである。

   それとも、小悪人的な、だれの目にもすぐわかるといった安手の道具立てではなく、そのプロセスと結果に対して、だれもが認めざるを得ないように仕組んだ、いわば大悪人的権謀は巧妙をきわめた。

 とくに、信長生前中は、その意を迎えるために秀吉は智恵をふりしぼった。
 
表面上、それは至誠そのものであったかのように見える。

しかし、信長没後、彼は、その「ワル」をただちに顕にした。


たとえば、信長の三男信孝に対する場合   

この信孝を亡君の一周忌を待たずに謀殺してしまったのである。

信孝は、三男とはいえ、異母兄の二男信雄と同年の二十五歳。

世評では、人物・力量からして信孝のほうが信長の後継者にふさわしいと目され、
柴田勝家がこれをバックアップした。

これに対し秀吉は、本能寺の変で没した長男信忠の子・三法師を擁して柴田方と対立したのは周知の通り。

この際秀吉は、信孝と対立し始めた信雄を自派にとり込んだ。

そして信長没後六か月目に、秀吉は、言いがかりをつけて岐阜にいる信孝に攻めかかった。

  信孝は、頼みとする柴田が越前にいて雪で動けないうえに、兄の信雄が秀吉軍に呼応しようとするのを見て、やむなく白旗を掲げた。

秀吉はこれを容れ、和睦の条件として信孝の母と乳母を人質に取った。

  それから四カ月後、秀吉はこれらの人質を磔(はりつけ)にかけて殺してしまったのである。

明らかに挑発であった。

これを知った信孝は逆上し、再びアンチ秀吉の動きを示した。

しかし、頼みの柴田勝家は秀吉に攻められて天正十一年(1582)四月二十四日に滅亡。


同じ日に、信雄の軍が信孝の岐阜城を囲み、結局は信孝を自刃に追いやつた。

信雄を背後で操ったのは秀吉である。

もっとも、信孝を自刃させるまで、世間体を憚(はばか)ってやや手間はかけているが、ともかくも、亡君の遺子で最も有望な後継者を葬ってしまったのだ。

 また、信孝の母といえば、かつては秀吉も跪拝した信長の愛妾の一人だったが、秀吉は、これをも無惨な戦国権謀のいけにえとした。

「それも、これも戦国の習い」といってしまえば、それまでのこと。

しかし、信長と秀吉の関係をみる場合は、その延長線上にあるこれらの事件の意味を、とくと考えてみなければなるまい。

 天下取りに狂奔する秀吉の権謀はまだ続く。

信孝を滅したあと利用価値の下がった信雄に対する秀吉の扱いが、とたんに訴略になった。

それを怒った信雄が徳川家康と結び、小牧・長久手で秀吉と戦ったわけだが、このとき秀吉は信雄を手なずけるためにずいぶんな嘘をついている。

たとえば、実質的に信長の跡を継がせるとか、自分(秀吉)の人質を送る、など・・・。

しかし、信雄が約束通り家康から離れ単独降伏すると、そんな約束は全然守られなかった。

数年後、信雄は尾張から東海地方へのく国替えを拒否したことから領地を召し上げられ配流の身となった。


秀吉の晩年に御伽衆(おとぎしゅう)に加えられたことが、せめてもの救いである。

このほか、秀吉は信長の娘と姪を己の妾にしている。

これらの所業については、秀吉自身、負い目を感じていたと見え、秀吉は死の床で信長の亡霊に苛まれることになった。

その怪異な光景を目撃していた前田利家が、のちに『利家夜話』で次のように語っている。

<<太閤さまが御病気のとき、信長公の霊が現れ、「藤吉郎よ、よい頃合だから(冥界へ)参れ」とおっしゃられた。

すると太閤さまは、うなされたように「殿、私は殿の敵(かたき)をとって差しあげました。それに免じて、いましばらくご猶予を」と申しあげたが、

信長公は「いや、ならぬ!おれの子供たちを不幸にした張本人は、藤吉郎おまえだ!早くまいれ!」

とおっしゃって太閤さまを寝床から一間ほども引きずり出された。

このとき、太閤さまは、やっと正気に戻られたが、このありさまに北政所(きたのまんどころ)さまも上﨟衆(じょうろうしゅう)も胆をつぶしてしまわれた>>

   信長の声は、そのときの秀吉のうわ言、形相、動作から利家が想像したのだ

「秀吉はいつ知ったか」
山田風太郎(やまだ ふうたろう 1922~2001)
筑摩書房 2008年9月発行・より

光が丘公園(東京・練馬)1月5日撮影

     光が丘公園